役人と乞食 ブー
社会の下僕としての公務員。その公務自体はなにも生産しない。
社会の生産活動に従事することなく、もっぱらその社会の保守=公に携わる者の手にする報酬はその社会の常識に支えられたものであろう。
吉田向学が分析し、解明した江戸の公たる穢多非人制度=役人村は役務を支える特権的家職を認められることによって副次的収入を得、その持続的運営を可能とした。
ただ、役務の対価そのものはその社会のシビアな常識に支えられ、過不足のないものとして契約経過してきたと考えられる。
例えば、紀州では、町人側から選抜された町役人惣代が役人村への支出を常にチェックする形であり、武士支配のみの勝手やりくりでごまかしえる環境はないものと思われる。
そこで、役人村のやりくりである。
村として潤沢な副収入-家職が保証されていれば、苦労は少なかろう。
しかし、一定の規模の役人村を維持するための手立てにとられたものに、役人村が運営する乞食業と言うものが存在したのではなかろうかと思う。
乞食業という言い方には語弊があるかもしれない。
紀州藩牢番頭家文書をみれば、例えば鑑札を持っての私的ではなく公認された乞食業が存在していたと思える。そして、その行為者は、非人村に保護された人々だけではなく、非人村、穢多村に所属する役人衆(小前衆)もその業の監督者としてのみならず、その従事者であったと思える。
また、穢多村には芸者がいる。大道芸に携わる人々であろう。彼の人々も乞食と認識されていたという事か。
日記に様々な形で表現される「役人と乞食」。
ある意味で「非人」<弱人>という言い方にも共通している。
救民の対象とされる人々と、平場でその傍らにいる役人村の人々が、同じ言葉で語られる。しかし、両者は全く立場を異にしている事はもちろんだが。
話は飛ぶが、「乞食」については日本近世のキリシタン弾圧の関連で、転向を迫られても改宗せず、国外追放された人々の事が「乞食」という表現で記されているという。
しかし、この「乞食」について、役人村の役人衆とする説を主張する文書をまだ目にしていない。
江戸の乞食表現に照らせば充分考えられる事だが。
確かに紀州藩牢番頭家文書にも「非人村の歴史」として書き残されている。
「・・・非人村之義者、元来牢番頭共之手下ニ而、浅野紀伊守様御時代より有来候処、右村之者共切支丹宗門ニ成、転不申候付、人数80人余御仕置被為仰付候付、既ニ非人村退転仕候処、・・・・」
紀州和歌山では、非人村に属する役人衆80余名がキリシタンとなり、その改宗を拒否して、追放され、非人村そのものが一度閉鎖されたという。
さて、役人と乞食。
一昨年紹介した非人七兵ヱ一家引抜きをめぐるやり取りの中でも配下の七兵ヱのことを牢番頭達は、非人であり、乞食であると表記している。
さてさて、役人である事と、乞食である事。
当事者やその社会の人々は、その事柄をどう了解していたのであろうか。
その役人村の小前衆の身の丈を今年も考えていきたい。
更に言えばそれは、テリトリーとアイデンティティーをめぐる人間という地球生物の身の丈の事ではあるが。


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