ようこそ

  • 長州藩の穢多が残した唄
    少岡ハ垣ノ内               山部は穢す皮張場           長吏の役ハ高佐郷           何そ非常の有時ハ           ひしぎ早縄腰道具            六尺二歩の棒構ひ           旅人強盗制道し             高佐郷中貫取              
2012年5月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

最近のトラックバック

2012年5月 3日 (木)

サンチョ5月の迷言

映画「わが母の記」を観てきたサンチョの妻
映画を観た人が皆涙ぐんでいたと聞き

サンチョ曰く

人類の母
メン類の父

2012年4月30日 (月)

現代日本語の致命的誤り ブー

「疑わしきは罰せず」というあやしい言葉がある。
誰が誰に向って発している言葉なのか、
近代司法は封建の野蛮な司法より改良されただとのたまう解釈らしい。

もっともらしいその言葉、なにかおかしくないか。なにか匂ってこないか。
そこには、近代の司法権力の恣意性がにじみ出ている。これで権力の安寧を保ってきたと。

元々、正しくは「確たる証しが無ければ誰をも罰してはいけない」である。
にもかかわらず日本の裁判所は、確たる証しのない者を罰してきた。彼らだけの治安を保つために。

このいいかげんな現代日本語は、言外で、疑われるような事をしでかしたものは罰するとなり、その騒ぎの主と決めつけられた者が罰せられる。

法に基づかず権力の恣意に基づく、日本の裁判所の常套手段である「えん罪」を絶え間なく再生産し、民衆を引き裂いてきた。
そして、それは悪意ある司法権力によって民衆がその裁きを認める事を通して、不断に罪を犯してきた事を物語る事実だ。そう無実の民を「法」にのっとって処刑するという罪を。

もう、たわけた日本語に操られてはいけない。
抵抗する権利はおのずとそこにある。

現代に生きる者は、過去に生きていたものより幸せ度が高いという思い込みで、人間がその生存上本来持っている抵抗する権利をどこかに置き忘れたかのように思えるこの日本社会。
だが、刊行されている紀州藩城下町牢番頭文書を勝手読みしている私には、江戸の時代で、紀州城下で、市井の法の番人である役人村の人々が、確かに抵抗する権利を保持しかつ行使して生きているという事実に触れて思う事は、人間ってそっちがまともではないかと。

2012年4月18日 (水)

事件捜査2 ブー

1714(正徳4)年1月8日 西奉行所にて

専右ヱ門の件、その後如何心かけ候哉と問われて答える牢番頭仲間、甚之丞・定七。

ここで捜査状況報告。

西浜ノ方が、吹上役人トップが担当し、久二郎ニ心かけさせ申候と。

妻側の親彦坂五郎作殿長屋中間部屋善九郎方は、吹上役人村非人役人長三が担当、「乞食となって2度遣し申候」と。

舛屋善右ヱ門借家にいる妻の宿の方は、甚之丞・定七が担当し忍び忍びにのぞき、近在残ず尋ねたと。

その状況下に動きのない事を伝える。

 

9日、専右ヱ門の妻の母の乳母奉公の話、本人兄弟吉之右ヱ門の話等、聞き込み内容報告。

同日専右ヱ門の妻、彦坂五郎作殿屋敷半介方(妻の兄弟)への引越願出ありとの報。

 

12日、甚之丞・定七、専右ヱ門妻の引越願認められたとの報を奉行所でえた後、城下見廻へ、すると久二郎より専右ヱ門を見付けたとの報うけて、現場に急行した甚之丞・定七と久二郎3人により、専右ヱ門逮捕。甚之丞・平八奉行所へ報告。奉行所役人衆による吟味。本人白状、手ぐつとなる。同日暮本人入牢。

役人村にて改めて奉行所役人衆による吟味。本人の供述をえる。

奉行所役人衆からは奉行所トップ衆は寺社も含め、よくやったとほめられておったと、伝えられる。

 

牢番頭日記には後に1月27日付として、犯人逮捕、同捜査にかかれる役人衆に報奨金が供される。

逮捕報奨、牢番頭甚之丞・定七・西浜長吏久二郎3名に壱貫文づつ。そして捜査報奨は、この3名に非人役人長三が加わる。

 

去年12月15日より本年1月12日まで、「専右ヱ門ヲ心掛候内ノ雑用ニ被為下」4人300文づつ頂載仕候。

となっている。

 

この記録を見る限り当時の紀州藩城下町警察においては、捜査そのものを心掛けと表し、そしてその捜査も、非人役人が「乞食」仕りの探索としても行動したことが記されている。

 

役人村衆の城下町界隈の情報量、恐るべし。それに正式に役人村として市中見廻りできる範囲には、武家屋敷廻りは含まれていない模様であるが、村の業としてなす、乞食・芸・雪踏直し等自体はその範囲に縛られない事もあり、それを最大限利用し、情報を得、探索もすると言ったところか。

町奉行所の指揮下にあり、報告、連絡、相談を繰り返しながら、業務をこなす役人村の頭と小前の姿がここにある。

 

事件捜査1 ブー

 1713(正徳3)年12月15日、牢番頭仲間詰所(こちら勝手に芝居と言う場所ではないかと思っているのだが)当番、甚之丞・定七の元へ、奉行所東西同心小頭名(命)をもって、事件捜査の指令が告げられる。

12月11日の夜、長顕寺へ押入盗人あり。坊主衆の首を締め物を取り逃げ去った。

これは7、8年前奉公に来ていた西浜村の孫右ヱ門世忰専右ヱ門という者である。

寺の案内をよく知っており、この男と特定した。専右ヱ門を捕らえよ。

奉行所トップ衆よりの直接の差図でもある。

 

同日、牢番頭仲間は直に動く。まず、西浜村へ調べに入る。しかし、要領をえない。

そこで、隣地にある配下の役人衆の在所、吹上役人村にいったん帰る。

ここで役人村の持つ情報を確かめる。

吹上役人村トップである久二郎からはたちどころに確かなる基礎情報が示される。

西浜村孫右ヱ門とは、寺の元屋敷跡の畑を管理している孫右ヱ門のことであると。ではその孫右ヱ門の詳細情報はいかに。

成程、孫右ヱ門は寺の支配人としており、その息子専右ヱ門は以前その寺の奉公にも出たことがあったが、心根がおもわしくなく、縁切りされ、今は(城下)広瀬船場町とぎ屋次郎兵ヱ近所に住んでいると。

牢番頭仲間はその情報を町奉行所へ届ける。奉行所からは翌16日午前10時改めて出向けと。

 

1、西浜領分長顕寺元屋敷跡支配百性孫右ヱ門年60余り、惣領専右ヱ門年22、3、次男吉之右ヱ門20計と承候

(牢番頭仲間は配下の吹上役人村の控そのものを客観性を持つ情報という意を持って「承候」と記している。)

 

16日、この内容を「承候通」として、町奉行所東西同心小頭に報告。受けた奉行所側は、更に捜査を進めよと指令。

牢番仲間側は東紺屋町、船場へ。そこで専右ヱ門の仕事仲間をみつけ、専右ヱ門の住まいなど聞き出す。

成程 当丁舛屋善右ヱ門の裏借家にいるが、ここ5~7日前から姿が見えず。合わせて、妻子、家主方に尋ねても、本人の行方分からず。稼ぎは日用取、子も2人、妻は奉公人の兄弟ありと。

かかる聞き込みを奉行所へ報告。奉行所は、よく聞き出したとほめ、妻もいることもあり、必ず家に戻るであろうから、夜のうちに見つけ捕らえよと檄を飛ばす。

17日、東奉行所にて、専右ヱ門「欠落」の届出が丁よりあったこと。そして妻の親の所在、住居の世話人も分かった事が伝えられ、かかる個所も探索するようにと指示を受ける。

19日、変化なし。報告。

22日、同上

年内に犯人逮捕とならず、そのまま年を越す。

 

2012年4月 6日 (金)

上司より心かけを要求される。 ブー

さてその首尾や

現代の警察の業務用語で何と言われているのかは知る立場にないが、
紀州藩城下町牢番頭日記には気がつけばその業務用語と思われることばが書き留められている。

さて、目に留まったのは「心掛け」である。
「心掛け、心懸け、心かけ」とも書きしるされているその中身は現代用語とは別である。

1713年(正徳3)12月11日夜 城下の寺へ強盗あり。
逃げ去った犯人は特定された。年の瀬のこと奉行所はトップ命をもって犯人逮捕を指示した件が記録されている。

同12月15日 奉行所東西同心小頭よりのその指示命は牢番頭仲間甚之丞・定七へ告げられる。
犯人は寺の元奉公人であった専右ヱ門であると。以下部分引用。

・・・・何とぞ専右ヱ門ヲ捕候様ニと御年寄衆より被仰候間、随分心掛ケ候様ニと、御おんミツにて御構之内ニ而・・・此義ハ御両所様御直ニ御差図被為成候由ニ御意被成候ニ付・・・・

つづく

2012年3月31日 (土)

泣く男 フー

泣くのは女の専売特許だろうに
被差別部落出身を表明した有名人には泣く男が多くてかなわない。

例えば、故中上健次と野中広務と村崎太郎
中上健次は「泣き」を文学にし
野中広務は「泣き」を利用してハカリゴトに執心しているように見える
村崎太郎は泣けば差別が無くなると勘ちがいしているようだ
最近、よく泣く

人の為に泣く男なら素敵だ
でも、自分を憐れんで泣く男は女々しいじゃないか

2012年3月 9日 (金)

3月3日に思いを寄せて フー

水平社宣言には思い入れがある。
その強いメッセージ性と物語を忘れることはできない。

なにせ、予定日が違うのに3月3日に3番目の子を生んだのだから。
3月3日の朝「あんた、今日、生まれてくるんじゃないの?」と大きなお腹をさすったら、
あら不思議、陣痛が始まり本当に生まれた。

初めの子は水平社宣言の年から命改まるといわれる60年の1982年に生まれた。
今年は水平社宣言から90年の3月3日。

朝日新聞が水平社関連の記事を3日から断続的に載せている。
解放運動の現状とか、被差別部落の青春群像など。

それらの記事は部落差別の根源である穢多・非人には一切触れず、
「人の世に熱あれ、人間に光あれ」
という強い言葉にだけ反応している。
その前段に「穢多を誇る時がきた」とか、「我が特殊部落民よ団結せよ」があるだろう。
と言いたい。

私が20代後半で解放運動に参加した時
色々な場で「穢多を誇る」とは何かと問うてみたが、
運動の中の誰も明確に答えてくれなかった。
たぶん、賤民史観しか持たない運動では誰も答えられないだろう。
仕方がないから、自問自答し、足元の出身部落の歴史を知り、
吉田向学さんの明晰な頭脳の助けを借りて、
やっと、「穢多を誇る」本意が理解できた。
そして精神的差別の呪縛から解放された。

うれしい、これは是非、子供に語り継がなくてはならない。

2012年2月21日 (火)

未来を望まない日本人 ブー

江戸時代、紀州藩城下町牢番頭は「(強者といえども)欲にふけるな」と強者を糺した。
300年後の日本の民なるものは、巨悪を許して小悪を許さない。
小さき者の非を寄ってたかっていたぶって、大きい者の非には立ち向かおうとしない日本の民意。

それをリードする最高裁(事務局)。
お前こそ巨悪。
日本の巨悪はここに巣くいほくそ笑む。

子供は未来である。
子供が子供を殺してしまった。
罪を問うなとは言わないが、
子供=未来さえも殺しても構わないという毒(放射能)をまきちらしたものは罪にも問わない。

*昨日2/20、光市母子殺害事件の被告、元少年に最高裁は死刑判決をくだした。
*昨日2/20、東京電力福島第一原発事故による福島県民約15,000人の外部被ばく線量調査の結果が福島県より発表された。
NHKは年間1ミリシーベルトの基準を越えた人が40%と報道し、
朝日新聞は20ミリシーベルトを超えた人が2人いたとし、年20ミリシーベルトは政府が決めた帰還、居住の目安になっていると(政府の明らかな脱法行為を認める)報道。
*国際基準は年1ミリシーベルトであり、日本の法律もそれに準じている。

2012年2月14日 (火)

乞食をめぐって ブー

前項「役人と乞食」に関連してさっそく吉田向学さんが激務の中にもかかわらず、ブログ上で基本的視座を示された。
即応すべき知のかけらもない身ゆえ、礼を失してしばし黙している。

日本の近現代というものに慣らされた者にとってなかなか江戸までの日本社会と人のあり様を理解するのは容易ではないと思っている。
極論すれば人間の生きるテーマが違うのではないかと思う。
それが「乞食」というものの了解にもあるような気がしている。

我が偏向視観によると、近現代の資本主義に汚染された人間の価値観では江戸までの日本社会はとらえがたいものではないかと思うこの頃である。
役人も乞食も尊厳ある人間であり、社会的動物である人間の類としての存在の一部である。

2012年1月29日 (日)

役人と乞食 ブー

社会の下僕としての公務員。その公務自体はなにも生産しない。
社会の生産活動に従事することなく、もっぱらその社会の保守=公に携わる者の手にする報酬はその社会の常識に支えられたものであろう。

吉田向学が分析し、解明した江戸の公たる穢多非人制度=役人村は役務を支える特権的家職を認められることによって副次的収入を得、その持続的運営を可能とした。
ただ、役務の対価そのものはその社会のシビアな常識に支えられ、過不足のないものとして契約経過してきたと考えられる。

例えば、紀州では、町人側から選抜された町役人惣代が役人村への支出を常にチェックする形であり、武士支配のみの勝手やりくりでごまかしえる環境はないものと思われる。
そこで、役人村のやりくりである。
村として潤沢な副収入-家職が保証されていれば、苦労は少なかろう。
しかし、一定の規模の役人村を維持するための手立てにとられたものに、役人村が運営する乞食業と言うものが存在したのではなかろうかと思う。
乞食業という言い方には語弊があるかもしれない。

紀州藩牢番頭家文書をみれば、例えば鑑札を持っての私的ではなく公認された乞食業が存在していたと思える。そして、その行為者は、非人村に保護された人々だけではなく、非人村、穢多村に所属する役人衆(小前衆)もその業の監督者としてのみならず、その従事者であったと思える。
また、穢多村には芸者がいる。大道芸に携わる人々であろう。彼の人々も乞食と認識されていたという事か。

日記に様々な形で表現される「役人と乞食」。
ある意味で「非人」<弱人>という言い方にも共通している。
救民の対象とされる人々と、平場でその傍らにいる役人村の人々が、同じ言葉で語られる。しかし、両者は全く立場を異にしている事はもちろんだが。

話は飛ぶが、「乞食」については日本近世のキリシタン弾圧の関連で、転向を迫られても改宗せず、国外追放された人々の事が「乞食」という表現で記されているという。
しかし、この「乞食」について、役人村の役人衆とする説を主張する文書をまだ目にしていない。
江戸の乞食表現に照らせば充分考えられる事だが。
確かに紀州藩牢番頭家文書にも「非人村の歴史」として書き残されている。

「・・・非人村之義者、元来牢番頭共之手下ニ而、浅野紀伊守様御時代より有来候処、右村之者共切支丹宗門ニ成、転不申候付、人数80人余御仕置被為仰付候付、既ニ非人村退転仕候処、・・・・」

紀州和歌山では、非人村に属する役人衆80余名がキリシタンとなり、その改宗を拒否して、追放され、非人村そのものが一度閉鎖されたという。

さて、役人と乞食。
一昨年紹介した非人七兵ヱ一家引抜きをめぐるやり取りの中でも配下の七兵ヱのことを牢番頭達は、非人であり、乞食であると表記している。
さてさて、役人である事と、乞食である事。
当事者やその社会の人々は、その事柄をどう了解していたのであろうか。
その役人村の小前衆の身の丈を今年も考えていきたい。
更に言えばそれは、テリトリーとアイデンティティーをめぐる人間という地球生物の身の丈の事ではあるが。

«2012サンチョ初しゃべり