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2007年4月22日 (日)

紀州藩城下町警察日記を読む 4/22

 警察関連の施設は何かの折には(例えば民衆が権力への怒りを表すときなど)攻撃対象となる。
 その事をはずして穢多への攻撃を語るのは誤りである。
 ただ、ここで紀州藩城下の穢多が民衆から攻撃を受けた例を述べるわけではない。

 さて、紀州藩牢番頭日記を読むかぎり、そこに登場する穢多は徹頭徹尾警察そのものである。一方の非人は、その穢多の管理の対象となる人々であり、様々な広がりを呈する。
 穢多の業の一つに町廻りがある。「改めます」様々についてみてみたい。

 改め-いろんな意味があると思われるが、改めるのだ。
 廻り-これもいろいろだが、廻りなのだ。

ある日の町廻り
 八百屋の隅で泣いている子どもを背負ったどろぼうよ、キャベツ一つ盗むのに涙はいらないぜ。ミカミカン。
 
 町廻りを「まわりすぎだ」と陰口をたたく町人を、それを聞きつけた穢多が八百屋で、どつく。
  「宝永2年9月16日 糸若、甚之丞町廻り、甚四郎、貞七御家中廻り仕り候ところに、北新町5丁目の肝煎り、糸若とおり申され候を見候て、穢多ども人がましく廻り候と陰ごと申し候を、あとより甚之丞聞き申され候て、ただちに八百屋へ追い込みさんざんたたき、右の品丁年寄り駒や又右衛門へことわり候へども、承引仕らず候故、ただちに町廻り御役人津右衛門様、専右衛門様へ申し達せ候えば、不届き者にこれあり候間(間=なので)、小頭衆へ申し候らえと仰せられ候ゆえ、ただちに御玄関へ参り出で、右のとおりを申しあげ候らえば、安左衛門様、吉左衛門様御意なされ候らはば、不届き千万の義に思い召され候て、年寄りと肝煎りを呼びつけ、極々叱り申すべき候、先に帰り候らえと御意なされ候。」
 翌日当事者を呼んで調べたら、陰口はたたいとらんのにどつかれた。と言う。
 さてさて、ことの顛末は。
 どついた甚之丞は「やりすぎ」だとして三ツ手ぐつ。その現場にいた頭は皆お叱りを受け、3人が閉門で、それぞれ罰を受けた。一週間後の23日3人が、25日甚之丞が御免となり、この件は埒明。(一件落着)

町廻りは基本的に頭2人を責任者としての1組10数人が廻るらしい。してして10数人が見廻りというのはどんな形態で、姿で・・・・・・興味は尽きない。

 10人あまりの牢番頭は、現場警察官の責任者としての任を終生はずれないように見える。勤めあげて隠居しているという話がまだでてこない。その代わり、現役で亡くなったという話が何人もでてくる。別の項で仕事の内容が書かれているが激務であることには違いない。 

2007年4月13日 (金)

城下町警察日記を読む

 きめた、アッと乱ダムに開き,読む。たえず読む。いやいや苦行を自らに強いるのではない。おもしろいからだ。(私にとっては珍しくお気に入りの本となる。ありがとう。出版してくれた全ての人々よ。)
 根からの依存症。大局はまかせて、御気楽のこだわりでやっていきます。なにせ、江戸八百八町を仕切った警察、その骨格が紀州は和歌山にあるとなっちゃあ、いよいよ気に入った。
 旧穢多の末裔と所帯を構えているといっても、うちの内儀も含めて、警察との縁は別物として生きてきた我々。ここはとても乏しい想像力故、義理のご先祖様たちの業務日記に対してわからないことばかり。でも、わからないことを読むのも、このごろは、すこぶるおもしろくなったという次第。
 巷のそれなりの江戸ブーム、ちなみに内儀が買ったノンフィクション作家作の図説『見取り図で読み解く‐江戸の暮らし』がうちにあるが、 「まちを守る江戸の交番」について、江戸警察機構はわずか200~250名の同心が現場を担ったとされ、穢多を完全に排除してまとめあげられている。あの浅草の弾さんも出てきませんのやでえ。
 他方で、穢多ということばさえ死語とすれば生きられるとして、皮革、食肉がらみを中心に賎業(そんなものあるかな)に生きた千年万年の賎民の話にして部落問題を語る世界。
 どっちも、どうにかならんのかなあ。
 してして、われは読んで読んで読みまっせ。
 紀州藩の牢番頭業務日誌を「城下町警察日記」と表題された心ある担当者の真意を、維新と差別のふるさとの井の中で受け止め、百周遅れでのハンスウ運動。いかがなハッコウ食品がかもし出されますか。
 こちらがかいでいる臭いをうまく伝えられたらいいと思う。

2007年4月 9日 (月)

時事ネタ 4.9

今朝の新聞見出しに思わず反応
「東京都知事石原氏3選 謝罪が新鮮、逆風かわす」

これは、「生き方ダーティー、謝罪が新鮮」とこなくては都民の愚かな選択を示せないでしょう。ジャーナリスト宣言が泣くぜ。

届いたばかりの雑誌「部落解放」4月号をひらけば、部落解放同盟奈良県連の謝罪文が載っていた。これまた腹立たしいかぎり。
内容を概略すれば、中川氏(なぜ、氏をつけるのか?)の地位利用について、「あれは建築会社の役員として行政にちょっかいをだしているのであって、解放同盟でちょっかいをだしているのではない。」

身内の不始末の謝罪、それも公式文章にわざわざ『氏』をつける。これは大阪の飛鳥事件の謝罪文でも同じだったが、これを分析すれば「自分たちではない。関わりはない。」という深層心理の現れか、もしくは不祥事の張本人のバック、影におびえて敬称を使っているのか。どちらかでしょう。

穢多の末裔の名誉回復組織とも思えぬ論調。自分たちの慢心を水平社宣言のせいにするような引用もやめろと言いたい。
これはないだろうというふざけた引用は『それこそこの奈良は水平社発祥の地です。「吾等は人間性の原理に覚醒し人類最高の完成に向って突進す」と何とも高邁な理想を掲げた水平社の綱領でしたが,かえってそれが俗人に過ぎないわれわれを不遜きわまりない人間に変えてしまったのかも知れません。』である。
今まで、他人の人間性を問う糾弾をさんざんしてきた団体が、自らが糾弾されるとこう開き直るのでは、あまりに無様でしょ。

朝からサンチョ「まとまりがないのがオイラの人生。だって、大器晩成だもん。まとまっちゃいけんでしょう。これを、書いて、書いて。」とうるさいので、書く事にした。フー。

2007年4月 8日 (日)

警察日記を読んでる途中の横道

 民百姓という世界と、非常の時あらばそのテリトリーの防護に従事する民という世界は、どう重なり、どう重ならないのか。
 朝日の田岡俊次さんが、常々話す、動(生)物の本能的反応である、己のテリトリーを死守する行為は、生活の安定した飼い猫でさえ持っているという。だから、愛郷、愛国などというものは本能的反応だから、それを鼓舞すれば、えてして偏狭な排外主義、排他性をあおる事になりやすく、かえって注意する必要がある。むしろ、自己愛は抑制的にしたほうが加減がよいと言う。
 さて、テリトリーの防護を専門的に担う側の民の行動と、民百姓のテリトリー意識が、一体化しているときは、両者間の軋みは生じにくい。しかし、社会の激変や、支配権力・勢力側の恣意的な横暴が顕著になるとき、どちらかと言えば、自然法を背景とする民百姓のテリトリー意識は、激しく揺さぶられ、権力の末端としてのテリトリー防護を専門的に担う民との対立、衝突は生まれる。

 福井県立大の本山美彦さんのブログ「消された伝統の復権」(2007、4、1)に沖縄は八重山、宮古島で1879(明治12)年4月に起きた、サンシー事件の事が記されていた。以下その要約。

 日本の近代化の中で琉球を支配下に置く。その過程は、従来の琉球の人々の支配秩序を激変させる政策となってあらわれた。
 琉球王朝解体、琉球藩の設置、その藩を廃止し沖縄県設置。
 八重山は宮古島では、その役所(行政,警察)機構としてあった「在番仮屋」(ざいばんかいや)を廃止し、「沖縄県警部派出所」を設ける。
 従来の代表を罷免し、その配下の頭(かしら)を明治政府が雇用する命を、首里から警官20名が訪れ告げる。しかし、頭たちは拒否。宮古島民は、結束し抵抗(結束を破る者は「所払い」の流刑とする取り決め)。しかし沖縄県はその政策を強行。1人の島民が取り決めを破って、通訳兼雑用人として県の官吏の側についた。島民は、その家族(両親、弟)を伊良部島に「所払い」、本人は警察署におり手出しできず。本人は、自分の悪口を言ったといって島民の1人を捕まえ暴行。これを見聞した島民1200人が警察へ押しかけ、本人を捕まえ、外へ引き出し殺害。
那覇の警察は48名を現地入りさせ、暴動の首謀者を捕らえる。その首謀者は仲間を売り、減刑。 

 本山さんはこの事件を、いまのイラクを彷彿させる事件であったと述べられている。

 社会の激動のとき、警察関連の機構やそれに従事する人々は、その立場としてもその荒波にさらされる。法に従う番人の世界は、同時に時の権力意志にも大きな影響を受けるのは致し方ない宿命ともいえる。
 うちの部落も、江戸時代は天保年間、長州藩の理不尽な政策に抗議した百姓一揆におそわれた。吉田向学「部落学序説」にも紹介されているが、長州藩天保一揆である。別に、青田伝説にまつわる一揆とされる。詳細を検討した吉田さんが、整理した事は、また見事だった。
 「青田の頃皮革を積んだ牛馬が側を通るとその年は不作になる」という伝承があったという。(その伝承を腑分けして見せてくれた職人芸吉田向学の部落学の本も出版が待ちどうしい。)
 さて、百姓一揆の想定される環境として、思い浮かべやすいことは、天候不順による凶作がある。収穫の乏しい秋の訪れは人々を途方にくれさせる。命をつなぐ糧さえままならぬ上に、課せられる年貢という苦悩がある。そんな想像しやすい話とはこの一揆まるで訳がちがうのだ。 この一揆のときは、天候不順はなく、逆に豊作が予想される年の出来事であるという。では何があったのか。
 なんとなんと、豊作では米価が下落し、藩がもくろんだ財政上の収入がかなえられぬと踏んだ藩財政方と豪商たちは、天をも恐れぬ非常手段に打って出た。あろうことか、周防灘は三田尻、竜ヶ崎で、嵐(台風)を呼び込む祈とうの儀式(「生皮」を海に投げこむ)を強行したという。
 台風を呼び込んでいいわけないでしょう。(まあ、いまの銭ゲバの尊ばれる新自由主義の社会じゃオーケイなのかもしれないが)
 自然の摂理に従う百姓たちの怒りは、天候に左右されない枠内にある「皮」商いへの反発となり、爆発する。
 地域の警察組織であり、かつ、役務の反対給付としての「皮」の権益を手にする穢多の在所は、藩内各地で襲撃された。
 うちの部落も焼き打ちにあっている。しかし、一揆勢に対しての先祖たちの対応は、私的反発ではなく、「公」としての対応をしたと記録されている。(これはこれでいろいろ書いておかなければならない事があるが、またの機会に)

 時代は移って明治の初め。
 西日本を中心に各地で、旧穢多の在所は、百姓の襲撃を受けている。そこでは峻烈を極め、死者をも多く出している。
 なぜ襲われたか。
 反政府暴動は、その過程で、警察組織に携わる側とあらゆる意味で緊張感をもつ(往々にして、警察施設は襲われるが、それが暴動の目的でない事は常である。いまのイラクにおいても然り。)。ただ、国家によって、番人の役を解かれリストラされたばかりの穢多たちにとって、我とわが身と在所の行く末を思案するまもなく襲われた惨事であり、当時の先祖たち[もとえ、義理の先祖たち]にとっての苦悩を思う。
 民。吉田向学言うところの「常民,」「非常民」の衝突。ある意味平和の時代が終わり、時代の大きな変化の中で両者の軋み、そして、その両者をも新たに侵略と多民族抑圧のための「非常民」化させられる近代の入り口での惨事。テリトリー意識。いろいろ考えさせられる事は多い。
 ただこれが、下位の身分の者への襲撃という話ではない事だけはたしかだ。

*擬態はやめよ。義理の先祖を我が先祖というのはやめろ。少しは自分で打つようになったとはいえ、文章のまとまりがいまひとつ悪い。まっ、がんばっとるからおおめにみてやろう。あまーいサンチョの妻より。

2007年4月 1日 (日)

「もう打てん、寝る」のつづき

 草清水が、大洋に流れ込むにも似た、小説「橋のない川」です。と住井すゑは言う。それをわたしが素直にきくことができるようになったのは、1992年の頃と思うが、下松愛隣教会の吉田さんに示唆され、目を啓かれたからである。
 「橋のない川」ってどんなところか?奈良盆地の一角の部落とその周辺を舞台とする物語から、「橋のない川」のかもすイメージは私の観念では「克服しなければならない差別の現実」を重ねてしまい、「橋のない川」ということばも希望を表すものととらえられないでいた。いつしか「橋のない川」を否定し、勝手に「橋」を希望の象徴として、肯定としては「差別をなくす橋をかけよう」などととぼけた解釈をしてきていた。ほんとに住井すゑさんすみませんでした。人為の過ちを底の浅い人為で乗り越えたがる、こんな銭ゲバにわか土建屋気質じゃああきませんなあ。
 草清水が、大洋に流れ込む。そこには人為の橋などおよびでない水平線が広がっている。、われも地球生物である己を知れ。橋のない川にこそ、法則社会で躍動するにんげんの光と熱がある。それが「橋のない川」のかもすイメージではないか。草清水と大洋(の水)と水平線。地球生物として生を受けた一人一人が平等という法則を知り生き死ぬ。ここにケガレを断つ水の入る余地はない。
 ただ私は、水に難のある相ゆえか、水よりも土で地球生物である己を感じてはいるのだが。

先日亡くなられた植木等さんのご冥福をお祈りいたします。

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