最近のトラックバック

2008年6月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

« 2007年5月 | トップページ | 2007年7月 »

2007年6月24日 (日)

中上健次を思う フー

 以前、うちの解放学級で中上健次の「紀州 木の国・根の国物語」を皆で読んだことがある。
 難しい漢字や言い回しに、四苦八苦しながら読んだ。
 そのことをすっかり忘れていた。
 「城下町警察日記」を読んでいて、ブーが「そう言えば、中上も和歌山だったよな。」というので思い出した。わたしは「紀州 木の国・根の国物語」は、ルポルタージュでありながら優れた文学作品でもあると思っている。しかし、被差別の情感に満たされたこの作品はまったく「城下町警察日記」に触れない。中上は知らなかったのか、それとも、興味がなかったのか。
 今年の夏も中上健次を偲んで新宮でシンポジュームがあるらしい。毎年、新聞の案内を見ながら行こうか行くまいか思案し、結局一度も行っていない。今年もどうしようかと迷っている。申し込みの締め切りはもう過ぎたかもしれないのに。

2007年6月17日 (日)

集え 賀川豊彦、知れ 己れのエセインテリぶり ブー

 第13回全国部落史研究交流会のご案内が送られてきた。
 8月3日~4日神戸市勤労会館で行われるその行事の中に地元特別企画として「生田川と賀川豊彦、兵庫県水平社の創立」のフィールドワークが予定されている。これまでの解放研究所主催「賀川豊彦関連行事」の内容も含め、賀川賛美一色の一方的な姿勢に抗議する。

 「一人は万人のために 万人は一人のために」のスローガンの下、日本の近現代、賀川豊彦は光田健輔を支えた。
 日本におけるきれいときたないは同義語である。優生思想は推進された。そして今も。歴史的な腑分けをし、人間の名誉を復権させる事なく、劣等種とした人間を、お前の為よといたぶり続けた。
 国を守ることは世界に攻めて出る事とした大日本帝国を夢想するエリートたちは、棄民対象を決め,近代国家に見合う国民づくりを異様な形相で進めた。その実践の一つが、江戸時代までは穢多が現場を持って社会的援助をしたハンセン病者を血祭りにあげ、強制隔離し、断種し、奴隷としてのみ生きることを許し、はむかえば殺したことである。
 この国家、社会をあげて、らい者への人権蹂躙を行ったその推進者の頭目は我が山口が誇る光田健輔である。そしてそれを支え続けた人こそ日本生協などの生みの親、賀川豊彦であった。
 らい者への社会的救済の担い手でもあった江戸時代の穢多は江戸時代の警察組織を中心とした「公」を支える現場公務員である。その穢多の歴史的名誉を踏みにじり、あまつさえ、つばを吐きかけ、あることないことのレッテルをはり、劣等種として棄民化した日本の近現代。この近現代をありていに見つめる事無くして何をしようというのか。
 いいかげん歴史を直視していく場に立つべきである。

2007年6月10日 (日)

気づくのが遅れた。和歌山の隣が奈良だった。 ブー

 「なら解放新聞」が送られてきた。改めて吉田栄次郎さんの話を目にする。長い間つんどく状態の「部落史における東西」を読み始めた。そこでわきあがる疑問。旦那って何?

 草、芝、などいずれも場を示すことばだが、その中で一つ例外的に,後の時代の人に誤解されやすいことばとして、人を表現したかに見えることばに、旦那がある。旦那と草,芝とはどう違うというのか。
 草,芝,などはそれ自体植物で野にある。そこからくることか、官ではなく民である事をさしているように思える。忍者が百姓にまぎれることを草になるといい、今でも在野、野に下るとかいう表現もある。
 そして、それは官が管理対象とするものであり、それを面として了解するものとしての「場」がつけば,文字通り「管区」となりそれぞれによって様々な「管区」が出来上がり,官の許認可の対象とその区域を表す歴史的言語であろう。その草,芝と旦那はどう違うというのだろう。

*無学な者の独り言 (草場,芝はどう音読していたか?しまなのか、くさば、しばなのか。歴史が下ると官の言語が裏社会言語になり、やくざな世界に移ってなわばり、しまが、一般化したのかとも思える。)

 超管理社会としての近世日本の「公」の社会でその現場をもった人々、つまり、官の許認可の担当者にとってみれば、草も芝も旦那も同じ意味ではないのか。草、芝といったとて、対象はそこにいる人のことだからである。だから、あえてそのことばの中に人格性を意識する事など無いであろう。
 はっきりしていることは、「公」の社会の衛手である現場公務員にとって、その管区の人々との関係は支持される事はうれしいが、管区にいる私人、その私人の全体とも主従関係の契約など行っているわけでない事は公、私、法を考えればおのずと納得できる事柄であろう。村がかえの番人として赴任する穢多にとっても、村権力の下僕となることを意味しているのではなく、法の番人として現場に赴くことを意味している。
 したがって、管区の私人に個人的に嫌われようが関係なく法的行動をきちんととる事が、「公」に従う現場公務員の仕事であろう。ただそれだけである。それが「公」の基本、基準であろう。
 穢多は正にその法の番人としての現場公務員であり,社会秩序の維持をはかった。多岐にわたるその内容は、医療行為も含め、貧困におちいった人々への公的救済の現場も担っている。
 紀州藩牢番頭日記の物語りをまじめに読めばそうなる。
 その現場公務員への給付内容として各地それぞれ様々な特権,権益が維持されていると理解すれば何のことは無い。
 祭り、興行や私人の冠婚葬祭も含め、様々な行事での場賃も、警備費用も含め、主催者が公の番人に支払う制度が成立していたと思える。更に乞食-勧進にも許認可つきで社会的互助救済制度ともいえる超管理社会で、人の把握はとことん行われている。
 所在がはっきりすれば、行倒れ者や犯罪者に対してもその出身地(丁)に保護、拘置時の費用一切を請求し運営している。請求先がなくて保護された人のみ用意された公費があてられる。公のまかないも徹底したものである。したがって、その現場公務員に対し、人々がいちいち、ケガレだなんだって言ってしのごの言う世界は存在しようがない。といった所が奈良のお隣、紀州では江戸時代成立していた。それもこれも、吉田向学「部落学序説」の語るところが実在している。

雑感-地球生物のうち、人のみが弱肉強食の論理で生きていける自由をもっている。ま、いえば、江戸時代の日本人はその人間の自由をコントロールした社会ってところかと思える。「公」というキーワードの下に。

2007年6月 3日 (日)

サンチョ、牢番頭の医者にびっくり。

 忙しすぎです。定七さん。
 牢番頭の仕事覚書きが「城下町警察日記」正徳6年の項に見えるが、その多様で雑多なのには驚くばかり。
 吉田向学さんから聞いていた「多くを穢す(すなわち多くの仕事をする)から穢多であり、穢れが多いからではない。」という穢多の定義そのまま、実に多くの役を担っている。
 サンチョ曰く、「お城の掃除に月のうちに4日、牢屋番に7日、町廻りに7日、御城下の行き倒れの保護などに4日、それだけで22日。それに、無宿者の追放や様々な死骸の片付け、夜回り、芝居警備、御城下に火事があれば牢屋に詰め、事件が起きれば犯人の追跡に逮捕、それに付随する様々な仕事。おまけに全て責任をもって記録せにゃあならん。これが、公の役務でなくてなんなのだ。こんなに仕事を一所懸命している人間を誰が卑しむ。それに穢多頭の一人である定七さんは医者なんじゃ。穢多にも医者がおったという話は、今までぽっつんぽっつん聞いておったが、牢舎の医者と書いてあるのに驚いた。名だたる歴史研究者はそれでも、牢舎の医者だから町医者とは違う。正式な医者じゃない、もぐりじゃと言うじゃろう。現場公務員にもぐりがあるもんか。うんぬんかんぬん、ぶつぶつぶつ・・・・この牢番日記は戦後すぐからその存在は知られておったに違いないのに、研究者はそれを当事者にきちんと知らせとらんかった。腹がたつのう。」
 確かに、享保12年5月に定七が、「牢舎での治療に、わたし一人では仕事が忙しすぎてかなわないから平六を医者にしてほしい。」と上司に願いでて、平六は六太夫と改名し、牢舎の医者を申しつけられている。
 なんとなんと、定七さんは穢多の頭だけじゃなく、牢舎の医者でもあったのかあ。そりゃあ、なんぼなんでも忙しすぎですよ。
 そういえば、山口県の部落史研究者、北川健さんの書いたものの中に、「島根県津和野の穢多頭は維新を機に苗字を改姓し士族株を取得。医業もできたこともあっていちはやく東京に転出して行った。」と
 これって、やっぱり、和歌山だけの穢多の話じゃない。

 「女は穢多なり」というのを聞いたことがあるけれど、主婦の仕事というのも多様で雑多、うちの仕事は料理人、掃除人、看護師、クリーニング、保母、経理、カウンセラー、それに最近、個人事業主である夫の専従事務員という仕事が加わって、「おんなはえたなり」とつぶやいてみる今日この頃です。うちの場合、そのすべてに「手抜き」がつくのですけれど、あ・し・か・ら・ず。

*雑考 サンチョは自分の仕事は雑務という。世の中の雑務は単純な仕事が色々あると理解する人が多いようだが、サンチョの考える雑務は専門職と違って、複雑な取り合いを考慮して、収まるところに収める仕事と思い込んでいる。

« 2007年5月 | トップページ | 2007年7月 »