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2007年7月29日 (日)

怪談  フー

 三遊亭円朝原作の怪談ばなしが、暑気払いで映画化されたらしい。
 人は怖いはなしがけっこう好きなのだろう。
 わたしは常々、日本人にとっての自分の存在は幽霊であると思っている。わたしは確かに存在するのに、日本人の多くにはその姿が見えたり見えなかったりするのだ。「わたしはここよ。ここにいるのよ。」とたまに自己主張すると、怖がられたり、恐れられたり、遠ざけられたりすることがままあり、すんなり受け入れられることなど皆無であった。
 それが、解放運動の中では自己主張こそが、いわゆる部落民宣言こそが運動の入り口であるとアジられ、「そうだ、わたしは人間になるのだ。」とばかりに地元で派手に宣言した。
 おかげで、なんだか気持ちがすっきりし、面白い人たちにたくさん出会い、ついでに善き伴侶と子どもまで授かった。
 ここまでは、よかった。
 では、それでわたしは幽霊ではなくなったのか。なんのことはない、わたしは自分で自分のことを「人間」と認識しただけのことであった。そして、わたしを「人間」扱いする人たちとつきあっただけのことで、それから20年以上たっても、日本人社会でわたしの存在が相変わらず幽霊であることには違いがない。
 『水平社宣言』という優れて詩的なアジテーションには、「エタを誇る時がきたのだ。」というフレーズがある。しかし、解放運動のなかでエタを誇る時など今までもなかったし、このままでは未来永劫その時はこないと思っている。
 エタの実相を矮小し、賎民という言葉で全てを語ろうとする運動では、先祖は浮かばれない。それに加えて、自らを律することなく、不祥事をくり返す、自他を欺く運動で、いいのか。
 幽霊を見て、悲鳴をあげ、沈黙する日本人。確かに怪談ばなしはこわい、こわい。

*未来永劫---これはカート・ヴォネガットの本にあった言葉で、[女性が持つ永劫の隷属への憎悪]というのから頭に浮かんだ言葉。
最近、なにかと夫に向って毒づく時、使わせてもらっている。

2007年7月12日 (木)

コメントに答えて「公務員と法の遵守」 ブー 

 公務員になったことがないので、よくわからないが、江戸時代の紀州藩牢番日記にでてくる神文よろしく、誓約書に法の遵守があると思う。それを現在日本の公に携わる人たちは、自分だけが法を犯さなければよいと思い込んでいるのではないか。わが身を守る事が法の遵守ではない。
 例えば朝日の田岡さんがよく言う
 公務員は、民間人に比して特に法からの逸脱-犯罪を目撃した場合、告発する義務をもつという。
 「法」と「公」という関係をよく表している。ど素人から見れば、細かい法解釈での犯罪の成立の有無よりも、むしろ自然法からの逸脱、不合理性を強く感じるようなとき、「あっしには関わりあいのないことで」で行くのはアウトローだが、「公」に関わるものは自分の職務の枠に縛られる事なく、遭遇した現場で、家政婦が見なくとも、不法行為、法の逸脱を告発する行動が求められて当然であろう。
 田岡さんはいったいどこからこのような至極当然の理念を引用されているのか気になる。
 法があり、その遵守がある。しかし、現実の日本社会のあり様は、公にぶら下がるキャリアといわれる人々や政治家たちが、いかに脱法するかを競い、その現場を見ているはずの「公」に関わる多くの人々が黙し、公が公たりえず無責任な腐敗を堆積する。
 それを念頭において、江戸の「公」の一端の資料を読んでいる。

2007年7月11日 (水)

壊れた男の再生は可能か

 「ゆきゆきて神軍」は山口県が生んだ偉大な現代映像作家、原一男が世に問うた作品でしたが、大阪市立大解放研バージョンは8・9岩国市民館で用意されています。
 行動する解放研としては、はずせない展開ではないでしょうか。8・6広島行動の直後、長崎と同日ではありますが熱い夏とすることができるでしょうか。若者に期待しています。そうそう、当地でジェンダーフリー実践に情熱を燃やす人たちにとってのバージョンもあったらいいなとも思っています。

 なぜだ、この奥歯にもののはさまったような文章は。きさんも同類か。

 国でさえ性犯罪者に対し、更生教育を云々せざるをえない現在、問われた罪を裁かれる事なく逃げてはいかんで。
 彼はまだ受けていません。 性犯罪者更生教育を。
 したがって、その終了証書を持たないで社会復帰はできないでしょう。さて、いかに。

 彼とは昨年3人の女子学生及び院生へのパワーセクハラを申し立てられ、当人も事実を認めながら、懲戒免職にもならず、大阪市立大を退職金までもらって円満退職した、元HRDP(Human right and diversity project)顧問であり大阪市立大学人権問題研究センター研究員、鍋島祥郎という人です。

 彼の講演の案内、それも山口県同教主催の行事の案内が送られてきたので関係者各位にお知らせします。
 
 1、テーマ 差別の現実から深く学び、生活を高め、未来を保障する教育を確立しよう
 2、期日  2007年8月9日 (木) 10:00~16:00
 3、会場  岩国市民会館
 4、講演  「同和教育の残事業~学力不平等を克服する道筋~」
        教育研究家 鍋島 祥郎さん

*うちからの提案ですが、講演の題目は「わたしの犯した過ちの分析と反省」にしてもらえませんか。いかがでしょう。

*追記7月16日・山口県同教事務局に問い合わせたところ、真意はよくわからなかったが、その後講師は変更するとのことです。

2007年7月 8日 (日)

めじゃーをまいなーで語ることはできない ブー

 穢多が固める城下の治安  威風堂々の釘貫-九家の足跡
 もはや めじゃーをまいなーで語り続けることはできない
 和歌山の地図を見る, うなる。
 城下町警察日記の解説にある渡辺広 野田只夫論文の載っている雑誌[部落]を,「部落学序説」の著者吉田向学さんから見せてもらう。
 ただただ うなるしかない。
 「くぎぬき」 その名は文字どおり 治安の要を体した江戸は「だん」と遜色なき名であろう。にもかかわらず1953年渡辺広「紀の国の部落史」は、部落民=賎民とする史観学派にとってはずせない定番の主張で,<部落側の記憶と伝承>を一笑に付し染め直す。 「武士の定着」などと不届きセンバン、「部落民には長い被圧迫階級としての血が流れており、その歴史に誇りを持つべき」と。
 私は改めて思う、なぜそこまで無理難題をいい,事実を逆立ちさせて理解しようとしてきたのかと。
 何度でも言う,メジャーをマイナーで語りつづける事はできない。
 人がいる。社会ができる。掟ができる。その守り手がいる。いったいその社会の統治権力とその守り手の関係はマイナーの世界で語られる筋合いの事柄なのか。おのずとメジャーの世界の事柄であろう。よほどのひねりが無い限りメジャーの世界で充分に理解可能なのではないのか。穢多の話もそこから外れる事は無い。穢多がいるところ それは社会の基本の枠にある。例えば,所在や苗字についても何のことは無いそのままであろう。それは公に関わる事柄だから。

2007年7月 1日 (日)

サンチョは今日も うるさい フー

 急に暑くなって、肉体派サンチョも少々バテぎみな今日この頃。
 それでも、朝からサンチョの驚愕の声が響く。
 「ほれ、カクマルはチュウカクのことをウジ虫とは呼べんぞ。」
 はて、なんのこと?
 「ウジが治す足の壊死。マゴットセラピーというらしい。アボリジニやマヤ文明の時代から傷の治療にウジを使っとったって。一時すたれたけど欧米では今、脚光をあびとるらしい。」
 微生物とかもすぞーと、らんるが好きなサンチョは朝日新聞の医療欄を読みながら、しばし感激の面持ちである。
 「ほれみい、自然の摂理は偉大じゃ。じゃけど、この治療法は病的清潔症の多い日本では普及せんじゃろなあ。アメリカ生まれのウォッシュレットがアメリカでは普及せんで日本で普及したんじゃからのう。」
 サンチョの深いため息。

 わたしは穴のあいたTシャツや作業ズボンに流行の和柄でツギをあてながら
 「これはもう資源ゴミかウエスにしてもよかろうに、なんせ、ぼろを好んで着て仕事に行くサンチョゆえ、捨てると怒る。困ったもの。」とため息をつく。
 むふふ、次はどんなツギをあててやろう。
 君は着こなせるか、ど派手びっちツギ当て作業服。

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