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2007年8月28日 (火)

サンチョ観察日記 夏三題

サンチョの夏休み
  
 サンチョの夏休みは以外に早くやってきた。
 1月、2月の冬休みもちょっとつらかったけれど、7月からの夏休みは、ちぃーと早いんでねえの。おまけに「とやにつく」わ、雨ざーざーだわ、こちらの気分は滅入った滅入った。
 サンチョの休みが多いということは我が家の収入が少ない、もしくは無いということ。
 連日夜中までの残業続きだった息子に、サンチョは「身体を休めるんだよー。過労死とかあるからなあ、父さんなんかよく休んでるぞー」などと声をかける。「う、う、う」とはサンチョの妻。嘆きのうめき声。
 「ご家老死ーす。てか」妻を追い討つサンチョの声。

サンチョはカマキリのオスにご執心
  
 8月3日のNHKラジオ「子ども科学電話相談」を聴いて以来、サンチョはなにかにつけ「カマキリのオスはええのお」と言う。「なにがいいって、カマキリのオスは子どもをつくったらすぐにメスに食われるんぞ。おれは子どもをつくった後、何十年も養わんといけん。」
 すぐに食われるほうが、ゆっくり食われるよりましってことかいな。
 きょうもサンチョの「カマキリのオスはええのお」が狭い部屋にこだまする。

サンチョの見事な新陳代謝

 厳しい暑さの中、サンチョは何もせず椅子に座っているだけで汗びっしゃ。これで、仕事をしようものなら全身、汗でずぶぬれである。この新陳代謝のよさが、伝説に色を添える。
 「サンチョ手掘り伝説」が生まれ、一人歩きしているらしいのだ。8月に入って、手掘りの仕事依頼が相次いでいる。「あんたにうってつけの仕事がある。山の斜面で木の根っこを掘ってのけてくれ。」じゃの「あんたにうってつけの仕事がある。工場で25mばかし穴を掘ってくれ。」じゃの、この炎天下、ええかげんにせいと言いたくなるほどのキビシ-イ仕事依頼。なんぼ、手掘りが得意でもサンチョはそんなにすごくはないぞ。全身ずぶぬれの姿が依頼者にいたく感動を与えるらしい。得な体質なんじゃ。伝説を伝説たらしめるのもつらい。

2007年8月19日 (日)

同好の人へ ブー

 出でよ、警察官のことを警察官の事として分析解明する同好の人よ。
 決して差別被差別の問題で論ずるべき事柄ではない。そうでなければ我々にとって日本の歴史の像は実を結ばない。
 物語は、虚と実がそれなりに豊かに担保されてこそ物語なのである。
 虚のみでは、エセ語りから抜け出せる訳が無い。

 ただいま、わたし、警察日記と奮闘中。

2007年8月15日 (水)

研究に再生の道はあるか その2

 大阪の腐敗はどこからくるのか。
 おなごもすなりブログを始めてほぼ一年がたつ。書く事が苦手の私にとって、それも日記ごときを全世界に公開するなどと、未だに自分で納得しえる行為でもない。ただ、部落解放というテーマに出会い、様々な経緯をへて今があることを見つめれば、己と己どものありようを己に問いかけるものとして、ブログにてさらすのも一つの選択か。
 師岡さんがなくなり、彼の憤死の軌跡が、「同和はこわい考」通信インターネット版にて、去年の暮れから改めて掲示されている。
 研究者が棲息できる環境は、御用の世界との事と踏んでいる向きには何一つ衝撃は無いであろう。それもその御用の世界と精神が貧しすぎるし、安芸の農民の教え〈たるへび、きりうなぎ、ざるどじょう〉で言えば、その渦中にいて訳のわからぬリーダーに付き従い、かえって人心を惑わす御用聞きどまりで由としている向きの事だ。
 解放の理論を部落大衆の手でとした歩みは、市井の人々の手によって確かなものにしたいというまっとうな願いでもあったはずだ。それは、もともと対象を明らかにしないからエセを包み込みながらすすめざるをえなかった部落対策事業の歴史も、同和対策審議会答申を受けての同和事業が全国化する過程で、毒と薬を前にして、部落の貧乏人自身が貧乏人としての矜持を維持し互いをチェックすることをしなかったらとんでもないまちがいをおかすとするおそれも働いたろう。そう、まちがいの無い部落の昨日・今日・明日をめざしたはずだ。
 こころある研究者とアマチュアがよき日を目指してタブー無き挑戦をする、部落解放理論の創造とはそういうことだったと思う。こちらは遅れて歩みつづけ、部落の過去にも踏み込み、変わらぬ貧乏人の豊かな矜持に支えられきた。
 
 1969年私がはじめてみた上田卓三はすでに多くの人に感銘を与えるリーダーを演じていた。しかしその上田に象徴される者が何をしたかったのか、そして何をしたかは〈となりの飛鳥の小西が居続けたこと〉と無関係ではない。
 そして2006年がある。
 この間の問題の中で私が特に深刻だと思うのは教育問題だ。何せ親の姿を見て子は育つからだ。報道によると解放運動の成果として語られてきた〈解放奨学金制度〉が給付から貸与に変わって久しいが、大阪では別財源から穴埋めし、実質給付が続けられていたと。話はナンセンス極まりない。金持ちは借りた金を返さなくても済むのが資本主義の世の中だが、貧乏人は返さなくてはならない。それに奨学金は親に貸すのではない子ども本人である。借りたものを返さない運動をいつ大阪の部落の子どもたちがやったのか、「私たちはこうして踏み倒し運動で勝ちました」という解放新聞紙上での記事は目にしていない。貧乏人は返還不能な条件になってはじめて猶予となるのみである。なして貧乏人の面汚しを運動が陰でこそこそやってきたのか。〈子にはさせまいこの思い〉という言葉に支えられた悪行か。せっかく部落の子の姿をよき意味でチェックしているのかとおもいきの研究者=鍋島は積年の性犯罪行為が問われ、その申し開きもできない。臭気紛々たる世界がそこにある。

 改めて〈解放の理論を部落大衆の手でとした歩みを、さらに多くの市井の人々の手によって確かなものにしたいというまっとうな願い〉にたち続けることをはずしてはなるまい。ただ怠け者ゆえ歩みは遅々として・・・それにこちらアマチュアの極みでもある。どこかで、部落史や部落問題の研究者に対して、こころある人たちという錯覚も引きずってきた。しかし、吉田向学「部落学序説」が単独行で切り開いた部落の話に絡もうとする研究者はいないし、私も大阪の研究所に物言えど何の反応も無いのが現実だ。したがってこちら原一男〈ゆきゆきて神軍〉バージョンの実践者になるべく訓練は必要だが、《江戸時代の公務員=警察官がなして近代の被差別者になったのか》、《なして部落の話を近世以前にさかのぼらせての賎民の話にでっち上げたまま語りつづけるのか》一人でも多くの人と考えていきたい。 

欠作御宅にて申上候

 牢番頭定七は甚之丞と共に、正徳5年12月5日、非人村非人の管理不行届きの件で、上司宮本惣助に注意を受ける。
 御目付衆よりの厳しいお叱りの内容が示される。「このところ、武家屋敷にて施し物を欲張り、騒ぐ、それに幾度となくたずね来る、しつこいし、態度がでかい。また、賃仕事で出向いている先の港での材木荷上げ作業では、駄賃としての余り木の取りようが目に余るぞ」と。
 前の年の正徳4年、畿内一体はききんであったという。紀州は畿内のとなり。その翌年にあたるこの年の冬、町や村の人々の暮らし向きはどうであったろうか。生活の困窮から非人とならざるをえなかった人々にとって、紀州和歌山は温暖とはいっても真冬の事、さらに苦しい生活がそこにもあったであろう。背に腹は変えられぬ、生きんがための必死の乞食(こつじき〉や賃仕事も、その態度、行儀をたしなめられる。
 承り。
 定七と甚之丞の行動は迅速であった。
 非人村に小言をいいに行ったのではない。その足は、東奉行所同心小頭塩崎安左衛門宅へと向う。
 同心トップへの直談判は、この冬の非人村の窮状を訴え、真冬の間のしけ日での「1人1日1合のかゆを」とする極弱人への援助策を提案する。受けて応える同心トップの反応も早い。「とてもよき案だ。早速明日の御用日に決済しよう。すぐ手続きをはじめるぞ、書類を作れ」と。
 何事においても両頭立ての世界だが、あくる6日、東の塩崎のみならず西奉行所同心井上伝右衛門も事前に塩崎から聞き了解済みだったのか即座に対応。ここで東西同心トップ級の決済が済み、町会所を通して7日、施行の具体的段取り、事務処理方法も決済され、同日、ただちの施行となった。
 非人村の内の小屋非人91人、その中の極老者、病人31人を極弱人として、この31人の人々を対象とした、冬の11月から2月の間の乞食行がかなわぬ天候の日を月あたり5日程度とふんで、その〈しけ日1日1人1合のかゆ〉の支給が図られた。
 12月7日、「今日は御慈悲下り候日につき、しけ申さずとも、たまわらさせ候へ」と。
 このやり取りは、「公」の現場で働く人々が、即決実施した現代版でいえば福祉政策であろう。その行政効果はいかばかりだったろうか。限られた資源の中かもしれないが、生きることが共有できる社会の現場のように思える。他方今の日本では、北九州市生活保護課の課長の報道されているような行動が示す現状に、時代はどう歩いてきたのかをつくづく考えさせられる。

2007年8月13日 (月)

誇り

 少岡は垣の内
 山部は穢す皮張場
 長吏の役は高佐郷
 何ぞ非常の時あらば
 ひしぎ早縄腰道具
 六尺二分の棒構え
 旅人強盗せいとうし
 高佐郷中貫取

 誇りうる血はなお涸れずにあったのだという。その誇りうる人間の血脈とは、穢多の事であり、そのエタである事を誇る時がきたという。 ではその穢多の誇りとは何か。
   
 ここでは神代の神話はいらない。つい水平社から半世紀前までの実話でいいのだ。
 
 そう穢多は誰のことで何をしていたのか。やはりその答えを求めるにはこの唄ははずせない。山口長州の穢多による穢多自慢の唄であろう。

 更に「部落学序説」の吉田向学さんが発見した、幕末は長州徳山藩の藩士の獄中記での穢多の話がある。穢多は牢番として現れ拘束された藩士と様々なやり取りをした。逝く藩士がその獄中記に残している。
 
 そして和歌山紀州の警察日記。穢多が記録し続けた膨大な業務日誌。

 なぜだか釘貫とは守りの徴そのもので、守り手=デフェンスの役をいいえて妙である。その名に違わず働きつづける穢多の姿がそこにはある。

 だがなして水平社はそこに触れなかったのか。階級政策の犠牲者、産業的殉教者云々はいうが自由、平等を求め実行する者の具体として唯一述べるのが、ケモノの皮はぐ事、ケモノの心臓を裂く事であった。なぜ守り手=衛手のことが出ないのか。

 草清水が大洋に流れ込むにも似た小説<橋のない川>だと住井すゑは言う(1991年)。おなじ奈良でも奈良盆地を南下すれば紀ノ川の上流にあたる吉野川があり、そこに水平社のもう一つの顔<黒衣同盟>のふるさとがある。
 いまどき、部落史研究者に<武士の子でありながら>と紹介されている浄土真宗僧侶がいた。

 はたして浄土真宗は何を語り、何を黙しているのか。こと穢多の歴史実相を知り尽くす当事者でもある。

 日本の近代明治の40年余りのうちに何があったのか。あらゆるものに統治権力による人為が強く働いた時代、かっての治安の担い手が己の歴史を失わされる。それのみならず、あろう事か賎しき者と認知され排撃される。歴史資料の片隅にあったとするどうでもいい古の知識人のたわ言がクローズアップされ、近世の守り手にかかわる言葉が悪意をこめた読み替えで蔑みの言葉に塗り替えられる。
 
 それを誰がしたのか。

 御用、御用、御用だの近世までの日本の公はそれなりの道理に支えられたと思えるが、近代のそれは無理やり=恣意に支えられる。学が支配の要となり、御用は学者が代表し実践する。

 穢多の事実を葬り、穢多のエセ情報をまことしやかに述べる人。この筋の御用学者に誰がいたのだろうか。
 水平社同人たち自身は己の過去を失っていたのか、失ってはいないが黙ってしまわざるをえなかったのか。
 
 わずかに40、50年の事である。

2007年8月10日 (金)

芝 芝居考

  門前のふけた小僧の妄想はつづく
 もともとは軍事用語。その土地の統治権力者が自らのテリトリーとする領域を芝といい、こと敵対する隣接する勢力との戦闘局面に至るとテリトリー攻防を巡り、前線に陣を張る。芝に仮設の幕を張り、小屋=基地としての陣を設ける、この前線基地のことを芝居という。
 転じて、警察用語となれば、芝は所轄、それぞれの警察権の及ぶ範囲のこととなり、また、そこに居があれば、ポリスボックス、派出所となる。
 更に転じて転じて、遊芸がからんでくると、治安の保障された(統治権力側から言えば、したとなるが、)場所で、小屋掛けをし、楽しみごとを催す行為が芝居となる。
 従って、統治権力側は、当然の事として所場代を主催者に要求し、契約が慣習化された。その現場サイドのあれこれが、後につながる「やぐら銭十分一」であろう。

2007年8月 9日 (木)

ペンはなかなかすべらない。 ブー

  抑えても抑えても、あふれ出る吉田向学さんの博学ぶりに比し、装っても装っても、透けて見えるこちらの薄学ぶりは、こと、部落史を巡っての論考においても然り。
 只、メジャーをマイナーで語れないという心情は、ますます放り出せないものとなってきていて、どう物事を表現したものか、考える。
 だから、社会の基本の要素としての<守り=治安>の担い手のことを。
 「部落学序説」で吉田向学さんが示唆しているごとく、いつの時代とて、極一握りのキャリャだけでやれるわけが無いではないか。
 フーいわく、吉田さんが言う通り、江戸時代の穢多の話をごまかしてしまったものだから、穢多のまっとうな社会的認知が未だに量れず仕舞。まともな警察官がいなくて、安定した社会が200年も300年も続く訳無いじゃないか。と
 
 日本近代のペテンで、近世までの治安の担い手が、突然、棄民対象とされ、賎とされ治安の対象に転じる。
 その近世歴史資料を紐解くとき、文筆、言説、超ウルトラの高等テクニックは使えない私にしてみれば、やはり、メジャーの事はメジャーの事としてしか語れない。
 なして、統治者・権力側の末席にさえ身を置いていない者が江戸時代の治安を担った人々のあれこれを調べているのか。

2007年8月 8日 (水)

和歌山は大阪のとなりでもある ぶー

 もの読みのど素人が、これまたへそ曲がりで、紀州藩牢番頭日記を、あっとらんだむに読むと、やはり、、、。
 すべっております。欠作りと芝居考はタダイマ、
 業務日記に欠かせないものとして、責任ある事柄は必ず書いているのであろう。例えば、人、物、場所である。
 牢番頭が上司から様々な命を受けたり、問答する場所として記録されているものを、ざっと拾い出してみる。
 「奉行所御玄関にて」「御蔵屋敷にて」「牢番頭宅にて」「芝にて」「芝居にて」「欠作御宅にて」「欠作御宿にて」等々。
 紀州は和歌山にほんに土地カンなき身にて、当初その中で気になったのが、「芝居」と「欠作」だった。「芝居にて」、上司とやり取りをする書き込みが目に付く。そして、「欠作」ではやたら芝居、興行がある気が、、、。貞七さんが、様々な「かけ」の字を書こうと注釈者は必ず「嘉家」と書き添える。して「欠作」ってどんな所?部落学序説の吉田向学さんや匿名さんにも教えていただいたが、解説にある地図に「欠作」とあり、またやっと現在の地名としても「嘉家作」があることを知るに至る(このときまじまじと和歌山の地図を見た)。
 さて「かけづくり」が正しい読みのようだが、わたしにとって言葉からくるイメージは、柵,垣である。そこは大和街道から和歌山城下に入ろうとすると本町門の外隣に位置する丁である。奈良の吉田栄次郎さんが「部落史の東西」で触れていた、穢多が所有権のあるところで催される興行でのやぐら銭十分一の権益の話をななめ読みして、この「欠作」にも公の劇場、ホールがあるんかいななどと妄想は続く。で今わかったと思っている事は、「欠作御宅」「欠作御宿」は上司の同心小頭塩崎安左衛門宅。
 そうそう「やぐら銭十分一」のはなしはこれはこれで結構いけてる話のようだ。どうでも、部落史学会の学者さんは、「勝扇子」一件などを取り上げながら穢多のよくわからない権益ととらえ、近代に近づくほどこの権益が失われるという。紀州藩穢多が言う警察業務の一環という主張と一貫した実践は未だ紹介されていないように見える。
(部落学序説の吉田向学さんがその中で良質という塚田孝さんでさえ、穢多=アウトロー説をとり味噌糞一体そのもので読みづらい。せっかく研究するのに「周縁社会」はいただけない、武士気質を受け継ぐ高みか。 )

ここで、なして三連発いかさしていただきやす。
 なして、本当に江戸時代メジャーな警察の現場の話を誰がどうして語ることをやめたのか?
 なして、水平社宣言に一言も警察の話が無いのか?
 なして、穢多が公として慣れ親しんだ糾弾という言葉を水平社同人は身にまとえたのか?
 大阪の部落史研究は,近々「長吏文書」を発刊するという。〈大阪町奉行-与力-同心-四カ所非人〉の実相に迫ると。それは司法-警察の現場の解明なのか、はたまた被差別の民の新たな姿の提示なのか? 
 和歌山は大阪のとなりでもある。

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