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2007年9月15日 (土)

誰が誰を「賤」として差別したのか ブー

 部落差別の社会化とでも言うべき現象はとても新しい近現代での出来事である。
 私、どんどん時間の観念が大ぐくりになって明治以降は100年チョイしか経っていない最近のことであると思えたりする。
 従って勝負は「千年の愉楽?」ではない。<人のさが?としての有史以来の差別、抑圧のこと>ではない。
 吉田向学が提示した「貴賤」をめぐる前近代の理解はなるほどとうなずける。即ち、絶対概念ではなく、あくまでも相対概念だと。身分制社会の上下を相対して表現する以外の何物でもないと。ふむ、ふむ、大した見解ではないか、説得力がある。
 紀州藩牢番日記の世界は本当にそれを物語っている。京都ごときの「千年の云々」の世界で中世史の行刑の練り歩き犬神人の絵巻物などが紹介されるが、紀州和歌山城下においての江戸時代の行刑、市中引き回しの段などの紹介は、胴に入ったもので、そこに当事者の泣き言は無い。
 読む者はそのことに謙虚にならんでどうすると思う。
 例えば、差別戒名が刻まれたとする「差別墓石」である。
 いったい、今に生きる日本社会の人々で、どれくらいの人が自らに連なる江戸時代までの先祖の墓石を保守しているのであろうか。
 千の風にのらなくても、専念の先祖の墓石など、いやいや数百年の先祖の墓石など、ほんの限られた人のものでしかないのではなかろうか。墓石を保持するは、それなりのステータスで、貧を生活の基とする私にとっては無用のステータスである。(元石屋の娘婿が何を言うかとの声を無視して言う。)
 それが江戸時代までの墓石のことのあれこれを真剣にのたまう。そこの差別、被差別って、いったい、どういうレベルのどんな話なのか。
 本当に千の風にのらなくとも、墓石は野づらの印の石で充分としたであろう多くの貧しき人々の生き死は存在したのではないか。
 無知は本当に強い。学のある人は大変だろうがよろしく。
 正しい認識を大衆の手にする為に。

*(質素と貧)
 破壊的貧しさの中でモジリアニは絵を描いた。その絵は彼を潤すことなく、その名のみと画商を潤した。

母が倒れた ブー

 広島の田舎の母が倒れた。満94歳の誕生日を1月あまり前にして。この夏の暑さの中で、右脳全域に及ぶ梗塞によって。
 親不孝を地で行き、その母に「子どもには裏切られるもの」と嘆かせた私の青春期、以降30年がたった。
 体はすっかり小さくなって、刻まれたしわやしみが90年余りの歳月をあらわす。夢かうつつかことばを発すること無くよく眠る。病院の集中治療室のベッドにいる彼女の手や足に触れる。声をかけると、眠りのまにまに覚醒し、うなずき、また眠りの中に、生物の生命力はたいしたものである。年齢を重ねても、司令塔半分を破損するという体内の危機にたいして、人工栄養を注入されながらなお、その生命の基幹を保とうと奮闘しているように見える。今後どう経過するか、予断を許さない時である。
 人が生き死ぬる。その積み重ねの中に我もある。
 この夏の暑さ。妙なもので、私に与えられた休みを経過していたが、あなたにうってつけの穴掘り仕事があるって声をかけられ、望まれるならと盆明けから岩国の急傾斜面での竹株撤去作業に2~3日、9月に入ると地もとの工場で地中埋設ケーブル関連試掘に1週間、私、ほぼ55歳、お手当てをいただいての日中炎天下1日8時間のトレーニングジム通いの風。幅2m深度1.5mH当初予定100立方メートル超の完全手掘り作業の1員となる。
 この作業、肉体の限界へのチャレンジの用員は、ほとんどが棺おけに片足を突っ込んでおる風の高年齢者の集まり、これはやばいと直感。ここは私がやるっきゃないと俄然燃えての土堀り、自らは自然と土との交流でエネルギーをもらい、トランス状態。自作の即興の労働歌も出て、無事、安全を第一とする工場で、人間の生命の危機を体感する労働をクリアした。
 トレーニングジム通い後の感想は、まだ私も現役でいけると思った次第。
 そして、ベーシックな町屋での水道屋さんに戻っての仕事についた矢先の報であった。母倒れる。

2007年9月 7日 (金)

記憶と伝承  ブー 

 毎日新聞に福岡賢正さんの取材記事が載っている。
 読む者を泣かす。
 人が生きてきた。鹿児島は知覧で人が生きている。
 よく取材され、よく記事にされた。
 本当に人間という風雪に耐え、人は生きてきたのだということがよくわかる。
 国家のする人為、それにのまれ、まかれる人為、その中で差別に抗して生きる人。
 この記事のことは、きちんと人の心に留め記憶とし、伝承しつづけたいと思う。
 2007年9月5日 <平和をたずねて>を読んで

ことばはきっかい 特殊考  ブー

 今 京都産業大学教官に歴史学者(?)灘本昌久さんという人がいる。
 由緒ある穢多の末裔であるらしい。
 私たち(旧部落解放同盟新南陽支部)は、その彼によって名指しされ、かって次のように紹介された。
 解放新聞紙上のチェックでひっかかったとして、私たちの運動を部落解放運動の歴史上の一大汚点と断定した。
 「特殊」にいちゃもんをつけるなど運動の面汚しもはなはだしい。そんな事にぐだぐだ言うなら、いっそ「特別」にでもしとけばいいってか バカヤローって。(この彼の主張は彼のホームページ上に掲載された論文や出版物で今も読むことができる。)
 私たちは1980年以降という時期に支部活動をスタートさせた訳で、《遅れて》、部落解放運動に参加してきたが、スタート以来一貫したキャンペーンは、「おいでませ 維新と差別のふるさと 山口へ」であり、支部を解消した今も、それは変わることは無い。とにかく、何事もつまびらかにする事を、モットーにしてきた。しかし残念ながら、彼灘本さんは、山口の井の中はいかがとする好奇心はわかず、解放新聞記事のみで、自らの表現の自由を主張した。
 さて、その「特殊」である。
 このことば、どう考えてもことば自体は“きわめてすぐれもの”という意味がメインであると思う。そのことばが、何故マイナーのマイナス表現となるのか。
 「部落学序説」(吉田向学)によると、「部落」なることばは、ドイツ語「ゲマインデ」の翻訳語で、明治公権力の国民国家体制の基礎単位という(ゲマインデがキリスト教会を前提にした地域共同体である事を参考にしたもの)。したがって江戸のいにしえにその痕跡は無い。幕藩体制下の村と村境を撤廃し、中央集権の実験国家を作る。それも国教としての国家神道を謳い、その基礎単位共同体こそ、上からの強制としての「部落」であった と(詳しくは「部落学序説」参照の事)。
 それが今も全国各地に残る「部落」である。まったくよくわかる話だ。
 この「部落」というくくり、明治初年代からどのくらいの時間で、強制定着させたのだろうか。今では、古よりあったのかのごとく思ってしまうことばだが。
 さてさて、それに「特殊」である。
 この「部落」に「特殊」をつける。明治40年代以降に「特殊部落」なることばは生まれる。またまた出所が明治公権力である。
 そして、以来、部落は、国家神道地域共同体の基礎単位としてのそれと、旧穢多の在所を核とする地域、ことばを変えれば、国家神道地域共同体の基礎単位から逸脱した地域としてのそれとの、二重言語として、日本社会に存在してきた。
 さてさてさて、その「特殊」である。
 すぐれものと、まともに読めば思うこのことば、何故、逆転した意味内容を公権力は吹聴したのか。そしてその権力意志を率先して煽動した御用の学者とは誰なのか。
 そのあれやこれやは、単純な話ではないであろうが、、、
 人は染まる。プラスを意味する言語を振りかざして、侮蔑する。これって何?ほめごろしか?
 「長吏」にしてもそうだ。中国に行かなくとも、長吏は官のトップの事であり、いくら時代が変わったとはいえついこの前まで社会の基礎組織の人の事を指してきたことばをそのまま使って侮蔑するのか?(私も年を重ねてきたせいか過去時間のスパンが大きくてもついこの前と思えるようになりつつある)
 それに江戸時代の警察用語と思って間違いないと踏んでいる「四ヵ所」「四つ」は、重要な交通警察業務を端的に表しており、全国各地どこへ行っても街道の守り手の自他ともに認めたニックネームに違いないと思う。その歴史の実相を、誰が、動物由来の四つ足などと揶揄し始め、まことしやかに吹聴し、人々を染めたのか?
 この精神構造、私にはいまだによくわからない。古いという揶揄なのか?
 ま、時代が移って言語の意味が転じてくる事は往々にしてあるだろう事は想像がつく。しかし、同時代にまったく逆の意味をこめた言語が、それも公権力とその御用聞きによって社会化したとは、いったいどうなってるのか。
 私には、それはそれは尋常ではない時間と空間がそこにある、としか思えないのだが。
 ことばの奇怪さは、その社会がきっかいであった事の証なのか。
 まだまだ「特殊」については考えつづけるとしよう。
                       いつものみかんです。

2007年9月 6日 (木)

バックパッカー、バッグ盗られて万事休す。さてかけ込む所は紀州和歌山の段 ブー

 行きはよいよい帰りは……
 母と二人暮しでつつましく暮らしていた男、30にして思い立ち単身、宿願であった紀州熊野巡礼の旅に出ます。旅は洋の東西を問わず、トラブルとの距離がうんと縮まります。わかたに居る時は世話にはめったにならぬ警察も、旅先でのトラブルでは世話にならざるをえません。
 怖さ色々、さて、その大阪は河内屋与兵衛と申す人の一夏の体験の話しです。
 元文元年(1736年)7月2日大阪を出てから高野熊野詣でを無事済まし、紀伊三井寺、和歌浦をへて、一ヶ月におよぶ旅も、あと幾日かとなり、一安堵の8月は2日の夜、紀州和歌山城下の端,、欠作りにて最後の宿を取ろうかと旅籠をたずねましたが、あいにく一人旅のこともあってか宿がとれず。やむなく、欠作往還柳堤のあたりで、野宿とあいなりました。夜間、旅の疲れもあり,うとうと寝入っていましたところ、声をかける者がいます。
 その3人連れは「浜の役人だが、吟味いたしたきことがある。同行願いたい。」と申し、与兵衛を引き連れ、田中町のはずれあたりにさしかかります。すると人通りのないのを見はからってか、やにはに与兵衛を縛り、与兵衛の旅道具一式(皮籠とあり、たいそう種々な物が入るバッグのようですが。)を奪い取って何処かへ逃げて行ってしまいました。
 どうしたものか思案、呆然とする与兵衛。なんとか我に返り、縛られた手をほどき、やはり、ここは警察署に被害届を出して救済を願い出よう。そもそも浜の役人をかたった物盗りにあったのだから、本物の警察官に窮状を訴え、奪われた大切な札など盗り返してもらわなくては、巡礼の旅も水の泡だ。
 夜の明けるのを待って、与兵衛は警察署に駆け込みます。これこれしかじか、お助けを。
 警察署の対応はこれまた迅速です。
 ならば浜の役人のところへ行き、事情を話せと、うながされた与兵衛。浜の役人村=警察施設(=皆様方には非人村と言われておりますが。)に出向き、事情の一部始終を話します。
 対応した浜の役人側。3人組が浜の役人をかたった物盗りであった事からか、その日のうちに3人組を割り出し、うち無宿者2人を逮捕します。逃げ延びているのは警察官関係者の親族。何をすねてか、非行に走り、無宿者のごろつきになった秋右衛門事与八(穢多文右衛門の弟)。なんとか足取りをつかみ、追いかけ、張り込み、待ち伏せしますが、敵もさるもの、次の物盗りの帰り、追っ手に気づくやいなや持ってた盗品を放り出し、またまた逃げ延びてしまいました。
 ただ、与兵衛の盗まれた品物、3人組の盗品の処分がはやく、確保されたのは捕まった2人が持っていた袷と桃灯の2品のみという按配でした。
 さてさて、この一件、奉行所からの正式の吟味が行われます。
 与兵衛も「一人旅の順礼」ということで、その真偽もチェックされます。ただ、その信ぴょう性が認められてか、留め置かれた浜の役人村では、番人なしで保護されました。
 そして8月8日、与兵衛は浜の役人村での5泊6日間<3日~7日まで>保護滞在を終え、大阪への帰途につくことができ、そこで一筆したためました。浜役人衆宛の調書と礼状です。
 「私の訴えに迅速に対応して下さり、盗られたものの一部も取り返してくださり、またまた500文もの公金を与えられ、無事、旅立つ事ができます。お礼申します。特に浜の役人様には大変お世話になりました。」と
 さて、さて、さて大阪の河内屋与兵衛さん。
 紀州高野、熊野の順礼一人旅、紀州最後の宿は災難にあったおかげ(?)で浜の役人村となりました。
 その稀有な体験はいかがな記憶と伝承となりましたやら。……
 
行きはよいよい、帰りは…… おそまつ。

2007年9月 4日 (火)

穢多固め ウー

幕末徳山藩の藩士河田佳蔵獄中日記に書かれていたエピソードです。この中には牢番であった穢多たちの話がたくさん出てきます。時の権力争いの中で翻弄されている河田佳蔵に同情的だったためにこの獄中日記が彼の死後遺族に穢多から渡されたのでした。

その中で妙に印象に残った言葉が「穢多固め」です。幕末動乱期の長州藩の四境戦争前、恭順派が力を増していた頃、幕府へ差し出す佐幕派の人質三人を山口から徳山城下の武家屋敷に幽閉しました。この時、武士に混じって屋敷の回りの警護に当たったのが徳山藩の穢多でした。この時の様子が「穢多固め」です。各屋敷に四、五人の穢多を配置した特別警備体制です。佐幕派から守るということにはなるのでしょうが、穢多の行動規範はどこまでも法です。自分たちの任務としてこの「穢多固め」に参加していたのです。

もちろん、私たちは江戸時代の穢多は差別などされていなかったと主張しているのですが、こんな穢多たちが藩の命運を分ける様な警護を担っていた様子を「それでも、穢多は差別されていた」と言う人々はどう解釈するのでしょうか?「穢多のけがれし怨念」で屋敷を覆い尽くし近づく者を呪い殺してしまう陰陽師的な発想とでも言われるのでしょうか?穢多のけがれビーム!?「けがれ」などと言う怪しい概念を持ち込み民衆を分断するのはいつも権力側に付く者の手段です。良くも悪くも権力に近い所にいた事は間違いありません。それでも、この頃の穢多に、明治政府のけがれビームによって分断されてしまう自分たちの末裔の姿を想像する事は出来なかったはずです。穢多の復権こそ現在を生きる穢多の末裔の任務に違いありません。

「明治以降に行政によって作られた特殊部落」 ウー

少し前の話になってしまうのですが、同和教育に関する学習会に参加してきました。軍都呉市の中の明治時代に行政によって作られたという部落の中での会でした。部落の歴史と現状についてのお話しを聞いた後、地区内のフィールドワークをしていきました。明治政府の政策で、軍事関連の「と畜場」「留置所」がまず市街地の外れ谷合の場所に置かれ、その関連で、県内の他の部落から多くの部落民(当時で言えば旧エタ)が住むようになったのが部落の起源ということでした。その後、家畜市場や市の火葬場が置かれ、大きな部落となっていったそうです。現在は、どの施設も他の場所に移設されていますが、部落の上に戦後開発された墓地が大きく広がっていました。

部落のお話しの中で興味深かったのが「同じ部落の中であったのに、道を隔てて2つの通称があり、その2つが昔から仲が悪く、同じ部落の中なのに、小学校校区がその道を堺に分かれていた」という話です。隣同士の部落の仲違いが多いのはよくあることです。それについては、江戸時代の役務が違うからではないかと考えています。お互いに相互監視をさせる意味もあるでしょう。現在でも、警察と公安や、部署によってそんな事がよく言われます。それと同じ事が行政によって明治以降に作られた部落だからこそ、1つの部落の中に2つの違う役務を持つ旧エタが存在しているからではないかと想像しました。

会の中では、簡単に吉田さんの「部落学序説」の中のさわりについて報告しました。江戸時代の話については、概ね理解してもらえた感じでしたが、明治以降の話は詳しくは出来ませんでした。自分にもあまり自信がなかったせいもあって、「詳しくは吉田さんのブログと紀州藩城下町警察日記を参照してください」と逃げてしまいました。同和教育運動の真っ直中を活躍されたベテランの先生も多い中の報告でしたが、教育現場を覆う重苦しい上からの抑圧が大きく「教育公務員として、エタの仕事ぶりであった権力に媚びず法に則って仕事をすることに学ぶ事が、今ほど大事になっている時はない」と言う話には共感をもらえたように思いました。

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