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2008年6月25日 (水)

「なら解放新聞」の休刊に思う フー

 けっこう楽しみにしていた「なら解放新聞」(発行 奈良県部落解放同盟支部連合会)が'08年3月号で休刊になった。残念でならない。

最終号で発行人の山下力さんが奈良の被差別部落の現状を分析しながら、解放運動は必要か否かとまで問う姿勢は好ましい。

 議論の紹介の中に、部落差別とは何か、部落問題とは何かについて、藤田敬一さんがキーワードは「あいまい」との意見があった。

 山下さんも藤田さんも賎民史観に囚われているため、わたしたちとは意見が異なるが、「あいまい」には賛同できる。

 どこからどこまでが部落か、何を根拠に部落民と決めるのか、差別するものも、されるものも、よくわかっていない。実にあいまいである。部落民の定義についても諸説ある、「あの人が部落民だ。」と言えば部落民になるという乱暴なものまで飛び出してきた。

抽象的な表現になってしまうが、ものごとをあいまいなままにしておくことで、随分、楽で得なこともあるから、この甘美な「あいまいさ」には要注意だ。

 あいまいさはまず思考停止を招く。いくら考えてもわからないから考えても無駄という思いに囚われやすくなる。

部落差別の「あいまいさ」に潜む甘美な思いは腐敗を生む。

この甘美とは、根拠もないのに自分たちを何千年も差別されつづけた「悲しい民族」と位置付け、被差別者の苦しみに甘んじることで自分たちをなぐさめることだ。そこに、ある種の美しささえ感じる人もいる。日本の多くのインテリはその造られた「悲しみの民族」によりそおうとする。そのため、部落に対して奴隷的心情に陥りやすいのではないか。けっして対等な立場にはならない。上か下か、下か上。

 そして、その「あいまいさ」が生んだ腐敗とは、被差別部落出身であるなしに関係なく、偏見を逆手にとって儲けようとするやからを山ほど生んだということだ。

 それを、「したたか」と表現すれば弱者の強さをいうことになるが、現実の金の亡者たちはそんな生っちょろいものではない。腐ったものほどおいしいとはいへ、食えなくなるほど腐ってしまえば害毒ばかりが広がる。

 部落差別にまつわる「あいまいさ」をいつまでもそのままにしておくことは、差別解消どころか新たな差別を生むのではないか。

 藤田敬一さんは「あいまいなままでよい。」と言っているが、それを言っちゃあおしまいだと思う。なぜならそれは「わたしは学者ではない。」と自ら宣言しているようなものだから。学者の仕事はわからないことをはっきりさせて、それを発展させ、新たな道を指し示すのではないの?

何はともあれ、「なら解放新聞」が再発行される日を楽しみに待ちたい。

2008年6月24日 (火)

詩 うたの力  フー

 久しぶりに帰ってきた息子との話で、息子の友人の一人が青森県の出身だと知り、高木恭造という詩人を思い出した。
 わたしは20代の頃詩人にあこがれていた。ただあこがれていただけで、彼の詩集は一冊「まるめろ」というのしか持っていないし、詩に造詣が深いわけでもない。「まるめろ」は全篇青森地方の方言で書かれている。そこに惹かれたのだ。
 子どもがまだ幼く、冬の風の強い夜、眠り歌代わりに彼の「吹雪 -ふぎ-」という詩を読み聞かせた。「わらわどえ ぐぐどねでまれ」というフレーズから始まるこの詩は、寒い夜、眠らない子にうってつけだった。
 青森の厳しい冬とそこに住む人の気持ちやそこはかとないユーモア。それが、この短い詩を読むだけで充分伝わってくる。詩とはそのようなものと思う。詩の力は大きい。

 山口県の被差別部落のひとつに伝わる「高佐郷の唄」。これひとつで江戸時代の穢多の心意気がわかる。そこには差別の影など微塵もない。わたしは子どもたちにこの唄を伝えたい。この唄こそが、わたしたちの先祖の真の姿だと思うから。再度、紹介する。

少岡ハ垣ノ内              ショウオカハカキノウチ
山部は穢す皮張場           ヤマベハケガスカワハリバ
長吏の役ハ高佐郷           チョウリノヤクハタカサゴウ
何そ非常の有時ハ           ナンゾヒジョウノトキアラバ
ひしぎ早縄腰道具            ヒシギハヤナワコシドウグ
六尺二歩の棒構ひ           ロクシャクニブノボウカマイ
旅人強盗制道し             タビビトゴウトウセイトウシ
高佐郷中貫取              タカサゴウナカカンドリ

 この詩には穢多、非人に対する(現在の日本社会にある)偏見を吹き飛ばす力がある。
 部落差別解消にうってつけの詩なのだ。
 

2008年6月14日 (土)

解放学級を再開しました フー 

 この3・4年、解放学級を休んでいました。気持ちが落ち込んで、なかなか元気がでなかったからです。
 その間、吉田向学さんのブログに励まされ、どうにかまた集まってみようという力がわいてきました。
 久しぶりに部落内にビラをまきました。
 13日の金曜日、夜7時から、吉田さんにも来ていただき、いつもの会館で、いつものメンバーと新しく参加した方と部落の話を本当に久しぶりにしました。
 Y家の蔵から十手を持ち出して子どもの頃遊んだ話などもでて、吉田さんのいう「穢多=非常民説」は意外に素直に受け止めてもらえたようです。
 吉田さんから、「差別をなくすためには自分たちの歴史を人まかせにせず、自分たちで調べなくてはだめだ。」と言われ続けて、幾星霜。
 差別解消に向けての希望が見えてきました。

2008年4月25日 (金)

サンチョ観察日記 4月25日

  サンチョはひとり親方ゆえ、仕事が立て込むとチョー忙しい。
 先月はお休みばかりだったけれど、今月はつぎつぎに仕事が舞い込みてんてこまい。
 きのうも夜中までこむずかしい仕事の依頼に頭をひねり、何かよい方法はないかと考えあぐねておった。
 寝室とリビングとキッチンと事務室が混ぜん一体となった狭い部屋。 夫が起きていると妻であるわたしもなかなか眠れぬ。

「サンチョが夜中まで起きていると眠れない。」と朝のわたし
「そりゃあガ-ゴーガ-ゴーと眠れんわねえ。ガーゴーガーと言うとってもねえ。そりゃ、眠れんわねえ。」と朝のサンチョ
「眠っとったかもしれんけど、眠りが浅くていけんの。」とわたし
「浅くてねえ、ゴーゴーねえ。子を思う母のごとくに、いつでも起きれる態勢じゃね。」とサンチョ

 話題を変えて、わたし「サンチョってマダムキラーよね。下は0歳から上は95歳まで、女性に人気があるじゃん。」
 サンチョまんざらでもなく、「まあ、年上と幼稚園児限定ではあるけれどね。人気者かな。」

 今日もサンチョはツギあてだらけの作業服を粋に着こなし、颯爽と穴掘り仕事に出かけて行った。感謝。

2008年3月29日 (土)

ロバのはなし フー

 差別のことを考えるとき、よく思い出すはなしに「ロバの罪」という寓話がある。これも「部落学序説」を書いている吉田向学さんに教えてもらったものだけれど紹介したい。

   ロバの罪
 ライオンとヒョウとハイエナとロバが集まって食糧不足をこぼしていました。ひとりが水不足が原因だろうといい、またひとりはだれかがよからぬことをしたせいで日でりがつづいているのだといいます。結局のところ、おたがいに罪を告白しあおう、そしてそれが罪だとみとめられるものなら、罰をあたえようということになりました。
 ライオンは村で子牛をとらえてたべたのがわたしの罪だと告白しました。
 ヒョウはまいごのヤギを殺してたべたといい、ハイエナはトリ小屋からニワトリを盗んでたべたとざんげしました。三人は、おたがいのするどい爪や牙をみやって「いいや、それは罪にならぬ」と首をふりました。
 「わたしはご主人のおともをしていたとき、ご主人が立ち話をしているあいだに、道ばたの草をすこしたべたきりで・・・」
 ロバがこういうと、残り三人組は顔をみあわせ、きびしい口調でいったのです。
 「罪だ、おそろしい罪だ。わざわいの根は、おまえだったのだ。」
 三人はロバにとびかかり、たべてしまいました。

世界の民話シリーズ 動物の国の民話(チェコ・スロバキア)より

 山口県の同和教育読本には、動物をつかって「よきこと」の勧めを主眼にした子どもむけのおはなしがたくさんある。けれど、どれも、権力には無批判で、同情と理想ばかりを押し付ける内容でうんざりする。ま、これはこれで、偽善を教えるにはとてもよい教材だと思ってきた。しかし、差別問題に限らず、ものごとを深く考えさせるにはこの「ロバの罪」が一番だと思う。
 多民族国家の中で生み出された民話だけのことはある。感心してしまう。
 
 

2008年3月19日 (水)

やさしい警察官  ブー

止まってはいけません。歩きなさい。歩き続けなさい。

止まってはいけません。歩きなさい。歩き続けなさい。

ここで止まると集会とみなします。

集会の届け出はでていません。

無届け集会とみなし、逮捕します。

止まってはいけません。歩きなさい。歩き続けなさい。

ここで止まると集会とみなします。

やさしい警察官の忠告でした。

今では妻に言われます。

その妻も止まってばかりいます。

なまけもののブルース

2008年3月 4日 (火)

百の嘘とひとつの真実   フー

部落解放運動の堕落と混乱は、水平社の時代からあったということは自明のことである。
水平社は百の嘘を含み、ただひとつの真実で人が集まっていたのだと、今日わかった。
幾百の嘘があろうと、ただひとつの真実があれば人を惹きつけるのだと。
3月3日、水平社創立大会の歔欷の声こそがただひとつの真実である。
その熱に私は惹かれるのだ。

歔欷(きょき)-すすり泣く、むせび泣くこと。
百の嘘とひとつの真実-インドのIT企業の社長が「インドには貧しい人に分け与える富そのものが無いのに気づいて会社をつくったのだ」との発言について、サンチョが言ったことばである。それを私がいただきました。グラッチェ、サンチョ。

2008年3月 1日 (土)

サンチョ観察日記 '08.3.1

 このところ、サンチョは料理修行をしておる。
 つきあいのながーい友人から、グループホームの宿直を週に一度、して欲しいと頼まれたのだ。
宿直は4人分の夕食と朝食をつくらなければならないらしい。サンチョは新婚当初は男も家事をしなくてはと、けっこう手伝っていたけれど、いつのまにやら、外の仕事は男、家の中の仕事は女という役割分担に慣れ親しみ、母を手伝う4人もの子どもがいたこともあり、皿洗いすらしないずばら男に成り果てておった。
 にわかに料理を教えろというものだから、しぶしぶ教えることにしたはいいが、サンチョはうるさい。
 まず、おおちゃくにも、献立は考えない。買い物もしない。内儀がすべて準備した材料で料理だけしようという虫のよさ。それも、いちいち訊いてくる。そのうえ、冷蔵庫の中を見ながら「袋を開けたまま賞味期限の切れたハムがあるぞ。」とか、「ネギがしなびてるぞ。」とか鬼の首を取ったが如くの物言い。
 だから、女はつらいと言うんだ。男は黙って料理しろ。と小さな声で毒づく。サンチョの内儀であった。

よい子 わるい子  フー

 「ラジオで、昔、地下に住んでいた青年の名を聞いた。」と夫が言う。
 それは、コンビニの金を盗もうとして盗めず捕まったという、なんともおそまつな事件の犯人の名だった。
 その青年は子どもの頃、親がうちの部落に中古の家を買って町から引っ越してきた。引っ越してすぐ親戚をよんで家の披露をしようとしたが、親戚がこなかった。とか、商売で商品を売り込みに行き住所を言うと断られたとか、わたしは部落の出ではないのに差別されたと、その青年のかあちゃんが嘆いていた。
 金もうけにあせった親がマルチ商法にひっかかり、一家離散のような形でその青年と家族は地下を出た。しばらく消息がわからなかったが、20代になってから折に触れ地下の友達を訪ねてきていた。
 
 「あの子は本当はええ子なんよ。親が悪いんよ。それはようわかるけど困ったもんじゃ。しょっちゅう部落に遊びにくる。ほんと、わるい子ばかり、部落に帰ってくる。ええ子は帰ってこん。」と、その青年のうわさ話を大きな声でおばがする。

 ほんとにわるい子ばかりが帰ってくるのか、統計などないが、おばの気持ちの中にある卑屈さがそれを言わせているのだ。
 ほんとによい子は帰らないのか、おばの地下から出たいという願望がそれを言わせる。

 社会の抑圧にさらされると人間はゆがむ。ほどよいゆがみ、困ったゆがみ。それが個性と笑えているぶんには幸せだ。
もう30歳になろうとするその青年のゆがみは、本人のせいというにはかわいそ過ぎる事情がある。それでも生きていかなければならない。

2008年1月17日 (木)

レッテル フー

 長男が今月結婚するので、昨年、わたしは彼の妻となる人のためにウェディングドレスを縫った。

 その時、図書館でドレスの作り方が書かれた本を数冊借りたところ、その中の一冊に次のようなメモをみつけた。

  母は私達の所に居る。中に居る。

  母は私達の心のささいになてる。

  差別の前 (この前の字は上から消そうとした跡がある)

 私は動揺した。ああ、ここにも心ないレッテルに苦しむ人がいる。文章や字の様子から、書いた人はわたしと同年代か、もう少し上の女性であると推察した。なんらかの差別を受ける立場の人であろう。

 日本の被差別部落のレッテルは、江戸時代の穢多や非人に由来している。多くの被差別部落は江戸時代の穢多や非人が居た所であり、その末裔が住んでもいる。もちろん、明治以降流れこんできた百姓や町人の末裔もいる。ひょっとすると、今では穢多の末裔など一人もいない被差別部落もあるかも知れない。そして、明治以降に新たに作られた被差別部落もある。

 わたしの住んでいる市では、行政が住民に相談なく勝手に被差別部落の地区指定をした部落も存在する。そこの住民は穢多とはなんの関わりもなく、その場所は江戸時代の穢多の在所などでもない。

 明治以降作られた被差別部落であっても、部落差別は「穢多・非人」ということば無しでは成立しない。

 その名によって、えてかってなレッテルをはられるのが部落差別だ。とわたしは理解している。

 人からレッテルをはられたからといって、拗ねていないで、自分ではりなおせばいい。それが解放運動ではないかと思ってきた。

 だから、吉田さんから聞いた、山口県北に住む、組織とか解放運動などとはまったく縁のない老夫婦が、差別に抗う方法として「穢多の歴史」を大切にして子や孫に伝えようとするのは、たとえ、それがごく限られた個人の行為だとしても、彼らの解放運動だと、わたしは思った。

 穢多の何たるかを知らずして、穢多の名で差別を受けるのは理不尽ではないか。この理不尽に対抗するには歴史を取り戻す必要がある。権力が作った歴史ではなく、陳腐な賤民史でもなく、歴史的に担った役務の内容を知るべきだ。そして、その歴史がいかに捏造され、隠され、穢多自らが捨ててきたか、その過程をたどって初めて、自分の納得のいくレッテルのはりなおしができるのではないか。

 どんなマイノリティーも差別に抗うためのアイデンティティーをもっている。部落差別を受けるものがアイデンティティーをもち難いのは、部落の歴史も知らず、部落とはなにかも知らず、誰が部落民なのかも知らないからだ。まったく、どこの世界に差別される由縁もわからずのほほんと生きているマイノリティーがいると言うのだろう。

 歴史をないがしろにするから、腐った運動が跋扈するのだ。

 反発こそが私のバネである。えてかってなレッテルは、返上するしかない。

2008年1月12日 (土)

あけましておめでとうございます

 2008年を寿ぎ、遅ればせながらごあいさつを申し上げます。
 母が倒れて4ヶ月、見舞いに行けばじとっと5,6時間、94歳老女の生体観察をしております。
 おかげさまで、母は右脳の梗塞の後一命はとりとめ、鼻からチューブの人工栄養のまま、寝ては覚めてのベッド生活を送っています。いずれ一代記でも書いてみたらどうかと認知が定着しない母に語りかけたりしていますが。どないなことになりまするやら。

 このブログを始めて以来、私たちからすればもっと前からですが、部落民をめぐるアイデンティティーについていろいろ語り合ってきました。運動にとって部落民の出自など、どうでもいいという風潮がとみに強いように思われますが、出自によって差別される身ならば、その出自のなんたるかを知ることは大切なことだと思うわけです。
 私たちは部落民につながる先祖たちを、ただただ自慢しようと主張しているのではありません。自らが歴史についても的確な実像を認識し直すことなしに、現実や未来への視座も定まらないと思えるからです。その追求は周辺ではなく、己のこととしてあります。この国の権力と民を巡ることがらです。
 いつまでも千年万年虐げられつづけた、無辜の民というペテンを使いつづけて何としますか。日本の部落民の先祖-穢多は治安権力の現場で生きてきました。そして近代、歴史の流れの中で翻弄され、いわく因縁の素性を持たされた弱者-マイノリティーへ落としこめられました。
 ありていにその過去と現実を見ること無しに、その先はありません。
 近世の穢多は治安権力の現場にどんな立ち位置でいたのでしょうか、そして民はまたどんな環境下にいたのでしょうか。
 そして近代のペテンの中で、日本の文化伝統は塗り替えられ、国民国家は作られました。そして旧穢多は歴史を奪われ偽造されました。部落ということばも神代の時代からあると錯覚させられがちですが、明治政府が作り出した近代に生まれたことばです。地域の基礎単位をあらわすことばです。近代日本の支配を色濃くあらわすこのことばが、中央政府の支配を直接に受けた沖縄の隅々にあるのはそのことを物語っています。そして特殊部落ということばも生まれ、部落差別が成立します。この近代の闇を白日のもとにし、部落差別に終止符を打たなければなりません。それは日本の民の自らがやらなければならないこととしてあると思っています。

 今年もよろしくお願いします。

2007年11月 9日 (金)

大バカ野郎 ブー

 学校へ行き過ぎると馬鹿になる。
 もう16~17年になるのかなと思う。フーが当時のラジオ教育相談に相談した時、助言をしてくれた精神科医・河合博さんの発したことばである。
 実のところ、我が家に授かった4人の子宝は、いずれも親が親という曲者のせいか、不登校・登校拒否の経験をもつ。
 あぶノーマルというノーマルを体験しながら生きていく者たちにとって、この河合博さんのことばは、意外なところで支えてもらったことばの一つであった。
 ところで、結果として母倒れるから、休んできたブログだが、ネットの限られた世界、苦しいほど人を愛してしまって、その対象が気になり、異臭までもかもし出してきた学校の先生もいて、人間やるのもなかなか辛い。
 それはさておき「部落学序説」吉田向学の眼力もますます冴えて、ネットから拾い出してきたextreme filthとnon humanそしてout caste communities。
 こちら貧しさ自慢では後にひけないほどの薄学。とりわけ、苦手の英語、現代を生きるスキルを身にまとわない者としては、エクストリ-ムフィルス、ノンヒューマン、アウトカーストコミュニティーズって何、改めて辞書をひく。
 おいおい何これ。

 穢多=[エクストリ-ムフィルス]、非人=[ノンヒューマン]、特殊部落=[スペシャルハムレット]、部落=[アウトカーストコミュニティーズ]
 部落解放・人権研究所と部落解放同盟中央本部の公式サイトの文章である。
 [エクストリ-ムフィルス]=極端な汚れ=穢多、[ノンヒューマン]=人ではない=非人、[スペシャルハムレット]=特別な、(教会のない)小村=特殊部落、[アウトカーストコミュニティーズ]=インドで四姓caste外の賤民の地域共同体=部落
 
 いつからこんな文章を載せているのだろう。誰が書いているのか、どこの意志で載っているのか。英語で文章を書くなんて私はできないが、学校に行き過ぎた人は、穢多や非人の大切な歴史的実像にふれることなく、そう、まったく興味がなく、つばを吐きかける。それも、当事者の系譜を装い、成りすまし、全世界に悪意に満ちた偏見を発信する。「紀州藩城下町警察日記」の一ページでも開いて読んでみろ。
 これって何。ものを書く心がない。大バカ者である。

2007年9月15日 (土)

誰が誰を「賤」として差別したのか ブー

 部落差別の社会化とでも言うべき現象はとても新しい近現代での出来事である。
 私、どんどん時間の観念が大ぐくりになって明治以降は100年チョイしか経っていない最近のことであると思えたりする。
 従って勝負は「千年の愉楽?」ではない。<人のさが?としての有史以来の差別、抑圧のこと>ではない。
 吉田向学が提示した「貴賤」をめぐる前近代の理解はなるほどとうなずける。即ち、絶対概念ではなく、あくまでも相対概念だと。身分制社会の上下を相対して表現する以外の何物でもないと。ふむ、ふむ、大した見解ではないか、説得力がある。
 紀州藩牢番日記の世界は本当にそれを物語っている。京都ごときの「千年の云々」の世界で中世史の行刑の練り歩き犬神人の絵巻物などが紹介されるが、紀州和歌山城下においての江戸時代の行刑、市中引き回しの段などの紹介は、胴に入ったもので、そこに当事者の泣き言は無い。
 読む者はそのことに謙虚にならんでどうすると思う。
 例えば、差別戒名が刻まれたとする「差別墓石」である。
 いったい、今に生きる日本社会の人々で、どれくらいの人が自らに連なる江戸時代までの先祖の墓石を保守しているのであろうか。
 千の風にのらなくても、専念の先祖の墓石など、いやいや数百年の先祖の墓石など、ほんの限られた人のものでしかないのではなかろうか。墓石を保持するは、それなりのステータスで、貧を生活の基とする私にとっては無用のステータスである。(元石屋の娘婿が何を言うかとの声を無視して言う。)
 それが江戸時代までの墓石のことのあれこれを真剣にのたまう。そこの差別、被差別って、いったい、どういうレベルのどんな話なのか。
 本当に千の風にのらなくとも、墓石は野づらの印の石で充分としたであろう多くの貧しき人々の生き死は存在したのではないか。
 無知は本当に強い。学のある人は大変だろうがよろしく。
 正しい認識を大衆の手にする為に。

*(質素と貧)
 破壊的貧しさの中でモジリアニは絵を描いた。その絵は彼を潤すことなく、その名のみと画商を潤した。

母が倒れた ブー

 広島の田舎の母が倒れた。満94歳の誕生日を1月あまり前にして。この夏の暑さの中で、右脳全域に及ぶ梗塞によって。
 親不孝を地で行き、その母に「子どもには裏切られるもの」と嘆かせた私の青春期、以降30年がたった。
 体はすっかり小さくなって、刻まれたしわやしみが90年余りの歳月をあらわす。夢かうつつかことばを発すること無くよく眠る。病院の集中治療室のベッドにいる彼女の手や足に触れる。声をかけると、眠りのまにまに覚醒し、うなずき、また眠りの中に、生物の生命力はたいしたものである。年齢を重ねても、司令塔半分を破損するという体内の危機にたいして、人工栄養を注入されながらなお、その生命の基幹を保とうと奮闘しているように見える。今後どう経過するか、予断を許さない時である。
 人が生き死ぬる。その積み重ねの中に我もある。
 この夏の暑さ。妙なもので、私に与えられた休みを経過していたが、あなたにうってつけの穴掘り仕事があるって声をかけられ、望まれるならと盆明けから岩国の急傾斜面での竹株撤去作業に2~3日、9月に入ると地もとの工場で地中埋設ケーブル関連試掘に1週間、私、ほぼ55歳、お手当てをいただいての日中炎天下1日8時間のトレーニングジム通いの風。幅2m深度1.5mH当初予定100立方メートル超の完全手掘り作業の1員となる。
 この作業、肉体の限界へのチャレンジの用員は、ほとんどが棺おけに片足を突っ込んでおる風の高年齢者の集まり、これはやばいと直感。ここは私がやるっきゃないと俄然燃えての土堀り、自らは自然と土との交流でエネルギーをもらい、トランス状態。自作の即興の労働歌も出て、無事、安全を第一とする工場で、人間の生命の危機を体感する労働をクリアした。
 トレーニングジム通い後の感想は、まだ私も現役でいけると思った次第。
 そして、ベーシックな町屋での水道屋さんに戻っての仕事についた矢先の報であった。母倒れる。

2007年9月 7日 (金)

記憶と伝承  ブー 

 毎日新聞に福岡賢正さんの取材記事が載っている。
 読む者を泣かす。
 人が生きてきた。鹿児島は知覧で人が生きている。
 よく取材され、よく記事にされた。
 本当に人間という風雪に耐え、人は生きてきたのだということがよくわかる。
 国家のする人為、それにのまれ、まかれる人為、その中で差別に抗して生きる人。
 この記事のことは、きちんと人の心に留め記憶とし、伝承しつづけたいと思う。
 2007年9月5日 <平和をたずねて>を読んで

ことばはきっかい 特殊考  ブー

 今 京都産業大学教官に歴史学者(?)灘本昌久さんという人がいる。
 由緒ある穢多の末裔であるらしい。
 私たち(旧部落解放同盟新南陽支部)は、その彼によって名指しされ、かって次のように紹介された。
 解放新聞紙上のチェックでひっかかったとして、私たちの運動を部落解放運動の歴史上の一大汚点と断定した。
 「特殊」にいちゃもんをつけるなど運動の面汚しもはなはだしい。そんな事にぐだぐだ言うなら、いっそ「特別」にでもしとけばいいってか バカヤローって。(この彼の主張は彼のホームページ上に掲載された論文や出版物で今も読むことができる。)
 私たちは1980年以降という時期に支部活動をスタートさせた訳で、《遅れて》、部落解放運動に参加してきたが、スタート以来一貫したキャンペーンは、「おいでませ 維新と差別のふるさと 山口へ」であり、支部を解消した今も、それは変わることは無い。とにかく、何事もつまびらかにする事を、モットーにしてきた。しかし残念ながら、彼灘本さんは、山口の井の中はいかがとする好奇心はわかず、解放新聞記事のみで、自らの表現の自由を主張した。
 さて、その「特殊」である。
 このことば、どう考えてもことば自体は“きわめてすぐれもの”という意味がメインであると思う。そのことばが、何故マイナーのマイナス表現となるのか。
 「部落学序説」(吉田向学)によると、「部落」なることばは、ドイツ語「ゲマインデ」の翻訳語で、明治公権力の国民国家体制の基礎単位という(ゲマインデがキリスト教会を前提にした地域共同体である事を参考にしたもの)。したがって江戸のいにしえにその痕跡は無い。幕藩体制下の村と村境を撤廃し、中央集権の実験国家を作る。それも国教としての国家神道を謳い、その基礎単位共同体こそ、上からの強制としての「部落」であった と(詳しくは「部落学序説」参照の事)。
 それが今も全国各地に残る「部落」である。まったくよくわかる話だ。
 この「部落」というくくり、明治初年代からどのくらいの時間で、強制定着させたのだろうか。今では、古よりあったのかのごとく思ってしまうことばだが。
 さてさて、それに「特殊」である。
 この「部落」に「特殊」をつける。明治40年代以降に「特殊部落」なることばは生まれる。またまた出所が明治公権力である。
 そして、以来、部落は、国家神道地域共同体の基礎単位としてのそれと、旧穢多の在所を核とする地域、ことばを変えれば、国家神道地域共同体の基礎単位から逸脱した地域としてのそれとの、二重言語として、日本社会に存在してきた。
 さてさてさて、その「特殊」である。
 すぐれものと、まともに読めば思うこのことば、何故、逆転した意味内容を公権力は吹聴したのか。そしてその権力意志を率先して煽動した御用の学者とは誰なのか。
 そのあれやこれやは、単純な話ではないであろうが、、、
 人は染まる。プラスを意味する言語を振りかざして、侮蔑する。これって何?ほめごろしか?
 「長吏」にしてもそうだ。中国に行かなくとも、長吏は官のトップの事であり、いくら時代が変わったとはいえついこの前まで社会の基礎組織の人の事を指してきたことばをそのまま使って侮蔑するのか?(私も年を重ねてきたせいか過去時間のスパンが大きくてもついこの前と思えるようになりつつある)
 それに江戸時代の警察用語と思って間違いないと踏んでいる「四ヵ所」「四つ」は、重要な交通警察業務を端的に表しており、全国各地どこへ行っても街道の守り手の自他ともに認めたニックネームに違いないと思う。その歴史の実相を、誰が、動物由来の四つ足などと揶揄し始め、まことしやかに吹聴し、人々を染めたのか?
 この精神構造、私にはいまだによくわからない。古いという揶揄なのか?
 ま、時代が移って言語の意味が転じてくる事は往々にしてあるだろう事は想像がつく。しかし、同時代にまったく逆の意味をこめた言語が、それも公権力とその御用聞きによって社会化したとは、いったいどうなってるのか。
 私には、それはそれは尋常ではない時間と空間がそこにある、としか思えないのだが。
 ことばの奇怪さは、その社会がきっかいであった事の証なのか。
 まだまだ「特殊」については考えつづけるとしよう。
                       いつものみかんです。

2007年9月 6日 (木)

バックパッカー、バッグ盗られて万事休す。さてかけ込む所は紀州和歌山の段 ブー

 行きはよいよい帰りは……
 母と二人暮しでつつましく暮らしていた男、30にして思い立ち単身、宿願であった紀州熊野巡礼の旅に出ます。旅は洋の東西を問わず、トラブルとの距離がうんと縮まります。わかたに居る時は世話にはめったにならぬ警察も、旅先でのトラブルでは世話にならざるをえません。
 怖さ色々、さて、その大阪は河内屋与兵衛と申す人の一夏の体験の話しです。
 元文元年(1736年)7月2日大阪を出てから高野熊野詣でを無事済まし、紀伊三井寺、和歌浦をへて、一ヶ月におよぶ旅も、あと幾日かとなり、一安堵の8月は2日の夜、紀州和歌山城下の端,、欠作りにて最後の宿を取ろうかと旅籠をたずねましたが、あいにく一人旅のこともあってか宿がとれず。やむなく、欠作往還柳堤のあたりで、野宿とあいなりました。夜間、旅の疲れもあり,うとうと寝入っていましたところ、声をかける者がいます。
 その3人連れは「浜の役人だが、吟味いたしたきことがある。同行願いたい。」と申し、与兵衛を引き連れ、田中町のはずれあたりにさしかかります。すると人通りのないのを見はからってか、やにはに与兵衛を縛り、与兵衛の旅道具一式(皮籠とあり、たいそう種々な物が入るバッグのようですが。)を奪い取って何処かへ逃げて行ってしまいました。
 どうしたものか思案、呆然とする与兵衛。なんとか我に返り、縛られた手をほどき、やはり、ここは警察署に被害届を出して救済を願い出よう。そもそも浜の役人をかたった物盗りにあったのだから、本物の警察官に窮状を訴え、奪われた大切な札など盗り返してもらわなくては、巡礼の旅も水の泡だ。
 夜の明けるのを待って、与兵衛は警察署に駆け込みます。これこれしかじか、お助けを。
 警察署の対応はこれまた迅速です。
 ならば浜の役人のところへ行き、事情を話せと、うながされた与兵衛。浜の役人村=警察施設(=皆様方には非人村と言われておりますが。)に出向き、事情の一部始終を話します。
 対応した浜の役人側。3人組が浜の役人をかたった物盗りであった事からか、その日のうちに3人組を割り出し、うち無宿者2人を逮捕します。逃げ延びているのは警察官関係者の親族。何をすねてか、非行に走り、無宿者のごろつきになった秋右衛門事与八(穢多文右衛門の弟)。なんとか足取りをつかみ、追いかけ、張り込み、待ち伏せしますが、敵もさるもの、次の物盗りの帰り、追っ手に気づくやいなや持ってた盗品を放り出し、またまた逃げ延びてしまいました。
 ただ、与兵衛の盗まれた品物、3人組の盗品の処分がはやく、確保されたのは捕まった2人が持っていた袷と桃灯の2品のみという按配でした。
 さてさて、この一件、奉行所からの正式の吟味が行われます。
 与兵衛も「一人旅の順礼」ということで、その真偽もチェックされます。ただ、その信ぴょう性が認められてか、留め置かれた浜の役人村では、番人なしで保護されました。
 そして8月8日、与兵衛は浜の役人村での5泊6日間<3日~7日まで>保護滞在を終え、大阪への帰途につくことができ、そこで一筆したためました。浜役人衆宛の調書と礼状です。
 「私の訴えに迅速に対応して下さり、盗られたものの一部も取り返してくださり、またまた500文もの公金を与えられ、無事、旅立つ事ができます。お礼申します。特に浜の役人様には大変お世話になりました。」と
 さて、さて、さて大阪の河内屋与兵衛さん。
 紀州高野、熊野の順礼一人旅、紀州最後の宿は災難にあったおかげ(?)で浜の役人村となりました。
 その稀有な体験はいかがな記憶と伝承となりましたやら。……
 
行きはよいよい、帰りは…… おそまつ。

2007年9月 4日 (火)

穢多固め ウー

幕末徳山藩の藩士河田佳蔵獄中日記に書かれていたエピソードです。この中には牢番であった穢多たちの話がたくさん出てきます。時の権力争いの中で翻弄されている河田佳蔵に同情的だったためにこの獄中日記が彼の死後遺族に穢多から渡されたのでした。

その中で妙に印象に残った言葉が「穢多固め」です。幕末動乱期の長州藩の四境戦争前、恭順派が力を増していた頃、幕府へ差し出す佐幕派の人質三人を山口から徳山城下の武家屋敷に幽閉しました。この時、武士に混じって屋敷の回りの警護に当たったのが徳山藩の穢多でした。この時の様子が「穢多固め」です。各屋敷に四、五人の穢多を配置した特別警備体制です。佐幕派から守るということにはなるのでしょうが、穢多の行動規範はどこまでも法です。自分たちの任務としてこの「穢多固め」に参加していたのです。

もちろん、私たちは江戸時代の穢多は差別などされていなかったと主張しているのですが、こんな穢多たちが藩の命運を分ける様な警護を担っていた様子を「それでも、穢多は差別されていた」と言う人々はどう解釈するのでしょうか?「穢多のけがれし怨念」で屋敷を覆い尽くし近づく者を呪い殺してしまう陰陽師的な発想とでも言われるのでしょうか?穢多のけがれビーム!?「けがれ」などと言う怪しい概念を持ち込み民衆を分断するのはいつも権力側に付く者の手段です。良くも悪くも権力に近い所にいた事は間違いありません。それでも、この頃の穢多に、明治政府のけがれビームによって分断されてしまう自分たちの末裔の姿を想像する事は出来なかったはずです。穢多の復権こそ現在を生きる穢多の末裔の任務に違いありません。

2007年8月28日 (火)

サンチョ観察日記 夏三題

サンチョの夏休み
  
 サンチョの夏休みは以外に早くやってきた。
 1月、2月の冬休みもちょっとつらかったけれど、7月からの夏休みは、ちぃーと早いんでねえの。おまけに「とやにつく」わ、雨ざーざーだわ、こちらの気分は滅入った滅入った。
 サンチョの休みが多いということは我が家の収入が少ない、もしくは無いということ。
 連日夜中までの残業続きだった息子に、サンチョは「身体を休めるんだよー。過労死とかあるからなあ、父さんなんかよく休んでるぞー」などと声をかける。「う、う、う」とはサンチョの妻。嘆きのうめき声。
 「ご家老死ーす。てか」妻を追い討つサンチョの声。

サンチョはカマキリのオスにご執心
  
 8月3日のNHKラジオ「子ども科学電話相談」を聴いて以来、サンチョはなにかにつけ「カマキリのオスはええのお」と言う。「なにがいいって、カマキリのオスは子どもをつくったらすぐにメスに食われるんぞ。おれは子どもをつくった後、何十年も養わんといけん。」
 すぐに食われるほうが、ゆっくり食われるよりましってことかいな。
 きょうもサンチョの「カマキリのオスはええのお」が狭い部屋にこだまする。

サンチョの見事な新陳代謝

 厳しい暑さの中、サンチョは何もせず椅子に座っているだけで汗びっしゃ。これで、仕事をしようものなら全身、汗でずぶぬれである。この新陳代謝のよさが、伝説に色を添える。
 「サンチョ手掘り伝説」が生まれ、一人歩きしているらしいのだ。8月に入って、手掘りの仕事依頼が相次いでいる。「あんたにうってつけの仕事がある。山の斜面で木の根っこを掘ってのけてくれ。」じゃの「あんたにうってつけの仕事がある。工場で25mばかし穴を掘ってくれ。」じゃの、この炎天下、ええかげんにせいと言いたくなるほどのキビシ-イ仕事依頼。なんぼ、手掘りが得意でもサンチョはそんなにすごくはないぞ。全身ずぶぬれの姿が依頼者にいたく感動を与えるらしい。得な体質なんじゃ。伝説を伝説たらしめるのもつらい。

2007年8月19日 (日)

同好の人へ ブー

 出でよ、警察官のことを警察官の事として分析解明する同好の人よ。
 決して差別被差別の問題で論ずるべき事柄ではない。そうでなければ我々にとって日本の歴史の像は実を結ばない。
 物語は、虚と実がそれなりに豊かに担保されてこそ物語なのである。
 虚のみでは、エセ語りから抜け出せる訳が無い。

 ただいま、わたし、警察日記と奮闘中。

2007年8月15日 (水)

研究に再生の道はあるか その2

 大阪の腐敗はどこからくるのか。
 おなごもすなりブログを始めてほぼ一年がたつ。書く事が苦手の私にとって、それも日記ごときを全世界に公開するなどと、未だに自分で納得しえる行為でもない。ただ、部落解放というテーマに出会い、様々な経緯をへて今があることを見つめれば、己と己どものありようを己に問いかけるものとして、ブログにてさらすのも一つの選択か。
 師岡さんがなくなり、彼の憤死の軌跡が、「同和はこわい考」通信インターネット版にて、去年の暮れから改めて掲示されている。
 研究者が棲息できる環境は、御用の世界との事と踏んでいる向きには何一つ衝撃は無いであろう。それもその御用の世界と精神が貧しすぎるし、安芸の農民の教え〈たるへび、きりうなぎ、ざるどじょう〉で言えば、その渦中にいて訳のわからぬリーダーに付き従い、かえって人心を惑わす御用聞きどまりで由としている向きの事だ。
 解放の理論を部落大衆の手でとした歩みは、市井の人々の手によって確かなものにしたいというまっとうな願いでもあったはずだ。それは、もともと対象を明らかにしないからエセを包み込みながらすすめざるをえなかった部落対策事業の歴史も、同和対策審議会答申を受けての同和事業が全国化する過程で、毒と薬を前にして、部落の貧乏人自身が貧乏人としての矜持を維持し互いをチェックすることをしなかったらとんでもないまちがいをおかすとするおそれも働いたろう。そう、まちがいの無い部落の昨日・今日・明日をめざしたはずだ。
 こころある研究者とアマチュアがよき日を目指してタブー無き挑戦をする、部落解放理論の創造とはそういうことだったと思う。こちらは遅れて歩みつづけ、部落の過去にも踏み込み、変わらぬ貧乏人の豊かな矜持に支えられきた。
 
 1969年私がはじめてみた上田卓三はすでに多くの人に感銘を与えるリーダーを演じていた。しかしその上田に象徴される者が何をしたかったのか、そして何をしたかは〈となりの飛鳥の小西が居続けたこと〉と無関係ではない。
 そして2006年がある。
 この間の問題の中で私が特に深刻だと思うのは教育問題だ。何せ親の姿を見て子は育つからだ。報道によると解放運動の成果として語られてきた〈解放奨学金制度〉が給付から貸与に変わって久しいが、大阪では別財源から穴埋めし、実質給付が続けられていたと。話はナンセンス極まりない。金持ちは借りた金を返さなくても済むのが資本主義の世の中だが、貧乏人は返さなくてはならない。それに奨学金は親に貸すのではない子ども本人である。借りたものを返さない運動をいつ大阪の部落の子どもたちがやったのか、「私たちはこうして踏み倒し運動で勝ちました」という解放新聞紙上での記事は目にしていない。貧乏人は返還不能な条件になってはじめて猶予となるのみである。なして貧乏人の面汚しを運動が陰でこそこそやってきたのか。〈子にはさせまいこの思い〉という言葉に支えられた悪行か。せっかく部落の子の姿をよき意味でチェックしているのかとおもいきの研究者=鍋島は積年の性犯罪行為が問われ、その申し開きもできない。臭気紛々たる世界がそこにある。

 改めて〈解放の理論を部落大衆の手でとした歩みを、さらに多くの市井の人々の手によって確かなものにしたいというまっとうな願い〉にたち続けることをはずしてはなるまい。ただ怠け者ゆえ歩みは遅々として・・・それにこちらアマチュアの極みでもある。どこかで、部落史や部落問題の研究者に対して、こころある人たちという錯覚も引きずってきた。しかし、吉田向学「部落学序説」が単独行で切り開いた部落の話に絡もうとする研究者はいないし、私も大阪の研究所に物言えど何の反応も無いのが現実だ。したがってこちら原一男〈ゆきゆきて神軍〉バージョンの実践者になるべく訓練は必要だが、《江戸時代の公務員=警察官がなして近代の被差別者になったのか》、《なして部落の話を近世以前にさかのぼらせての賎民の話にでっち上げたまま語りつづけるのか》一人でも多くの人と考えていきたい。 

欠作御宅にて申上候

 牢番頭定七は甚之丞と共に、正徳5年12月5日、非人村非人の管理不行届きの件で、上司宮本惣助に注意を受ける。
 御目付衆よりの厳しいお叱りの内容が示される。「このところ、武家屋敷にて施し物を欲張り、騒ぐ、それに幾度となくたずね来る、しつこいし、態度がでかい。また、賃仕事で出向いている先の港での材木荷上げ作業では、駄賃としての余り木の取りようが目に余るぞ」と。
 前の年の正徳4年、畿内一体はききんであったという。紀州は畿内のとなり。その翌年にあたるこの年の冬、町や村の人々の暮らし向きはどうであったろうか。生活の困窮から非人とならざるをえなかった人々にとって、紀州和歌山は温暖とはいっても真冬の事、さらに苦しい生活がそこにもあったであろう。背に腹は変えられぬ、生きんがための必死の乞食(こつじき〉や賃仕事も、その態度、行儀をたしなめられる。
 承り。
 定七と甚之丞の行動は迅速であった。
 非人村に小言をいいに行ったのではない。その足は、東奉行所同心小頭塩崎安左衛門宅へと向う。
 同心トップへの直談判は、この冬の非人村の窮状を訴え、真冬の間のしけ日での「1人1日1合のかゆを」とする極弱人への援助策を提案する。受けて応える同心トップの反応も早い。「とてもよき案だ。早速明日の御用日に決済しよう。すぐ手続きをはじめるぞ、書類を作れ」と。
 何事においても両頭立ての世界だが、あくる6日、東の塩崎のみならず西奉行所同心井上伝右衛門も事前に塩崎から聞き了解済みだったのか即座に対応。ここで東西同心トップ級の決済が済み、町会所を通して7日、施行の具体的段取り、事務処理方法も決済され、同日、ただちの施行となった。
 非人村の内の小屋非人91人、その中の極老者、病人31人を極弱人として、この31人の人々を対象とした、冬の11月から2月の間の乞食行がかなわぬ天候の日を月あたり5日程度とふんで、その〈しけ日1日1人1合のかゆ〉の支給が図られた。
 12月7日、「今日は御慈悲下り候日につき、しけ申さずとも、たまわらさせ候へ」と。
 このやり取りは、「公」の現場で働く人々が、即決実施した現代版でいえば福祉政策であろう。その行政効果はいかばかりだったろうか。限られた資源の中かもしれないが、生きることが共有できる社会の現場のように思える。他方今の日本では、北九州市生活保護課の課長の報道されているような行動が示す現状に、時代はどう歩いてきたのかをつくづく考えさせられる。

2007年8月13日 (月)

誇り

 少岡は垣の内
 山部は穢す皮張場
 長吏の役は高佐郷
 何ぞ非常の時あらば
 ひしぎ早縄腰道具
 六尺二分の棒構え
 旅人強盗せいとうし
 高佐郷中貫取

 誇りうる血はなお涸れずにあったのだという。その誇りうる人間の血脈とは、穢多の事であり、そのエタである事を誇る時がきたという。 ではその穢多の誇りとは何か。
   
 ここでは神代の神話はいらない。つい水平社から半世紀前までの実話でいいのだ。
 
 そう穢多は誰のことで何をしていたのか。やはりその答えを求めるにはこの唄ははずせない。山口長州の穢多による穢多自慢の唄であろう。

 更に「部落学序説」の吉田向学さんが発見した、幕末は長州徳山藩の藩士の獄中記での穢多の話がある。穢多は牢番として現れ拘束された藩士と様々なやり取りをした。逝く藩士がその獄中記に残している。
 
 そして和歌山紀州の警察日記。穢多が記録し続けた膨大な業務日誌。

 なぜだか釘貫とは守りの徴そのもので、守り手=デフェンスの役をいいえて妙である。その名に違わず働きつづける穢多の姿がそこにはある。

 だがなして水平社はそこに触れなかったのか。階級政策の犠牲者、産業的殉教者云々はいうが自由、平等を求め実行する者の具体として唯一述べるのが、ケモノの皮はぐ事、ケモノの心臓を裂く事であった。なぜ守り手=衛手のことが出ないのか。

 草清水が大洋に流れ込むにも似た小説<橋のない川>だと住井すゑは言う(1991年)。おなじ奈良でも奈良盆地を南下すれば紀ノ川の上流にあたる吉野川があり、そこに水平社のもう一つの顔<黒衣同盟>のふるさとがある。
 いまどき、部落史研究者に<武士の子でありながら>と紹介されている浄土真宗僧侶がいた。

 はたして浄土真宗は何を語り、何を黙しているのか。こと穢多の歴史実相を知り尽くす当事者でもある。

 日本の近代明治の40年余りのうちに何があったのか。あらゆるものに統治権力による人為が強く働いた時代、かっての治安の担い手が己の歴史を失わされる。それのみならず、あろう事か賎しき者と認知され排撃される。歴史資料の片隅にあったとするどうでもいい古の知識人のたわ言がクローズアップされ、近世の守り手にかかわる言葉が悪意をこめた読み替えで蔑みの言葉に塗り替えられる。
 
 それを誰がしたのか。

 御用、御用、御用だの近世までの日本の公はそれなりの道理に支えられたと思えるが、近代のそれは無理やり=恣意に支えられる。学が支配の要となり、御用は学者が代表し実践する。

 穢多の事実を葬り、穢多のエセ情報をまことしやかに述べる人。この筋の御用学者に誰がいたのだろうか。
 水平社同人たち自身は己の過去を失っていたのか、失ってはいないが黙ってしまわざるをえなかったのか。
 
 わずかに40、50年の事である。

2007年8月10日 (金)

芝 芝居考

  門前のふけた小僧の妄想はつづく
 もともとは軍事用語。その土地の統治権力者が自らのテリトリーとする領域を芝といい、こと敵対する隣接する勢力との戦闘局面に至るとテリトリー攻防を巡り、前線に陣を張る。芝に仮設の幕を張り、小屋=基地としての陣を設ける、この前線基地のことを芝居という。
 転じて、警察用語となれば、芝は所轄、それぞれの警察権の及ぶ範囲のこととなり、また、そこに居があれば、ポリスボックス、派出所となる。
 更に転じて転じて、遊芸がからんでくると、治安の保障された(統治権力側から言えば、したとなるが、)場所で、小屋掛けをし、楽しみごとを催す行為が芝居となる。
 従って、統治権力側は、当然の事として所場代を主催者に要求し、契約が慣習化された。その現場サイドのあれこれが、後につながる「やぐら銭十分一」であろう。

2007年8月 9日 (木)

ペンはなかなかすべらない。 ブー

  抑えても抑えても、あふれ出る吉田向学さんの博学ぶりに比し、装っても装っても、透けて見えるこちらの薄学ぶりは、こと、部落史を巡っての論考においても然り。
 只、メジャーをマイナーで語れないという心情は、ますます放り出せないものとなってきていて、どう物事を表現したものか、考える。
 だから、社会の基本の要素としての<守り=治安>の担い手のことを。
 「部落学序説」で吉田向学さんが示唆しているごとく、いつの時代とて、極一握りのキャリャだけでやれるわけが無いではないか。
 フーいわく、吉田さんが言う通り、江戸時代の穢多の話をごまかしてしまったものだから、穢多のまっとうな社会的認知が未だに量れず仕舞。まともな警察官がいなくて、安定した社会が200年も300年も続く訳無いじゃないか。と
 
 日本近代のペテンで、近世までの治安の担い手が、突然、棄民対象とされ、賎とされ治安の対象に転じる。
 その近世歴史資料を紐解くとき、文筆、言説、超ウルトラの高等テクニックは使えない私にしてみれば、やはり、メジャーの事はメジャーの事としてしか語れない。
 なして、統治者・権力側の末席にさえ身を置いていない者が江戸時代の治安を担った人々のあれこれを調べているのか。

2007年8月 8日 (水)

和歌山は大阪のとなりでもある ぶー

 もの読みのど素人が、これまたへそ曲がりで、紀州藩牢番頭日記を、あっとらんだむに読むと、やはり、、、。
 すべっております。欠作りと芝居考はタダイマ、
 業務日記に欠かせないものとして、責任ある事柄は必ず書いているのであろう。例えば、人、物、場所である。
 牢番頭が上司から様々な命を受けたり、問答する場所として記録されているものを、ざっと拾い出してみる。
 「奉行所御玄関にて」「御蔵屋敷にて」「牢番頭宅にて」「芝にて」「芝居にて」「欠作御宅にて」「欠作御宿にて」等々。
 紀州は和歌山にほんに土地カンなき身にて、当初その中で気になったのが、「芝居」と「欠作」だった。「芝居にて」、上司とやり取りをする書き込みが目に付く。そして、「欠作」ではやたら芝居、興行がある気が、、、。貞七さんが、様々な「かけ」の字を書こうと注釈者は必ず「嘉家」と書き添える。して「欠作」ってどんな所?部落学序説の吉田向学さんや匿名さんにも教えていただいたが、解説にある地図に「欠作」とあり、またやっと現在の地名としても「嘉家作」があることを知るに至る(このときまじまじと和歌山の地図を見た)。
 さて「かけづくり」が正しい読みのようだが、わたしにとって言葉からくるイメージは、柵,垣である。そこは大和街道から和歌山城下に入ろうとすると本町門の外隣に位置する丁である。奈良の吉田栄次郎さんが「部落史の東西」で触れていた、穢多が所有権のあるところで催される興行でのやぐら銭十分一の権益の話をななめ読みして、この「欠作」にも公の劇場、ホールがあるんかいななどと妄想は続く。で今わかったと思っている事は、「欠作御宅」「欠作御宿」は上司の同心小頭塩崎安左衛門宅。
 そうそう「やぐら銭十分一」のはなしはこれはこれで結構いけてる話のようだ。どうでも、部落史学会の学者さんは、「勝扇子」一件などを取り上げながら穢多のよくわからない権益ととらえ、近代に近づくほどこの権益が失われるという。紀州藩穢多が言う警察業務の一環という主張と一貫した実践は未だ紹介されていないように見える。
(部落学序説の吉田向学さんがその中で良質という塚田孝さんでさえ、穢多=アウトロー説をとり味噌糞一体そのもので読みづらい。せっかく研究するのに「周縁社会」はいただけない、武士気質を受け継ぐ高みか。 )

ここで、なして三連発いかさしていただきやす。
 なして、本当に江戸時代メジャーな警察の現場の話を誰がどうして語ることをやめたのか?
 なして、水平社宣言に一言も警察の話が無いのか?
 なして、穢多が公として慣れ親しんだ糾弾という言葉を水平社同人は身にまとえたのか?
 大阪の部落史研究は,近々「長吏文書」を発刊するという。〈大阪町奉行-与力-同心-四カ所非人〉の実相に迫ると。それは司法-警察の現場の解明なのか、はたまた被差別の民の新たな姿の提示なのか? 
 和歌山は大阪のとなりでもある。

2007年7月29日 (日)

怪談  フー

 三遊亭円朝原作の怪談ばなしが、暑気払いで映画化されたらしい。
 人は怖いはなしがけっこう好きなのだろう。
 わたしは常々、日本人にとっての自分の存在は幽霊であると思っている。わたしは確かに存在するのに、日本人の多くにはその姿が見えたり見えなかったりするのだ。「わたしはここよ。ここにいるのよ。」とたまに自己主張すると、怖がられたり、恐れられたり、遠ざけられたりすることがままあり、すんなり受け入れられることなど皆無であった。
 それが、解放運動の中では自己主張こそが、いわゆる部落民宣言こそが運動の入り口であるとアジられ、「そうだ、わたしは人間になるのだ。」とばかりに地元で派手に宣言した。
 おかげで、なんだか気持ちがすっきりし、面白い人たちにたくさん出会い、ついでに善き伴侶と子どもまで授かった。
 ここまでは、よかった。
 では、それでわたしは幽霊ではなくなったのか。なんのことはない、わたしは自分で自分のことを「人間」と認識しただけのことであった。そして、わたしを「人間」扱いする人たちとつきあっただけのことで、それから20年以上たっても、日本人社会でわたしの存在が相変わらず幽霊であることには違いがない。
 『水平社宣言』という優れて詩的なアジテーションには、「エタを誇る時がきたのだ。」というフレーズがある。しかし、解放運動のなかでエタを誇る時など今までもなかったし、このままでは未来永劫その時はこないと思っている。
 エタの実相を矮小し、賎民という言葉で全てを語ろうとする運動では、先祖は浮かばれない。それに加えて、自らを律することなく、不祥事をくり返す、自他を欺く運動で、いいのか。
 幽霊を見て、悲鳴をあげ、沈黙する日本人。確かに怪談ばなしはこわい、こわい。

*未来永劫---これはカート・ヴォネガットの本にあった言葉で、[女性が持つ永劫の隷属への憎悪]というのから頭に浮かんだ言葉。
最近、なにかと夫に向って毒づく時、使わせてもらっている。

2007年7月12日 (木)

コメントに答えて「公務員と法の遵守」 ブー 

 公務員になったことがないので、よくわからないが、江戸時代の紀州藩牢番日記にでてくる神文よろしく、誓約書に法の遵守があると思う。それを現在日本の公に携わる人たちは、自分だけが法を犯さなければよいと思い込んでいるのではないか。わが身を守る事が法の遵守ではない。
 例えば朝日の田岡さんがよく言う
 公務員は、民間人に比して特に法からの逸脱-犯罪を目撃した場合、告発する義務をもつという。
 「法」と「公」という関係をよく表している。ど素人から見れば、細かい法解釈での犯罪の成立の有無よりも、むしろ自然法からの逸脱、不合理性を強く感じるようなとき、「あっしには関わりあいのないことで」で行くのはアウトローだが、「公」に関わるものは自分の職務の枠に縛られる事なく、遭遇した現場で、家政婦が見なくとも、不法行為、法の逸脱を告発する行動が求められて当然であろう。
 田岡さんはいったいどこからこのような至極当然の理念を引用されているのか気になる。
 法があり、その遵守がある。しかし、現実の日本社会のあり様は、公にぶら下がるキャリアといわれる人々や政治家たちが、いかに脱法するかを競い、その現場を見ているはずの「公」に関わる多くの人々が黙し、公が公たりえず無責任な腐敗を堆積する。
 それを念頭において、江戸の「公」の一端の資料を読んでいる。

2007年7月11日 (水)

壊れた男の再生は可能か

 「ゆきゆきて神軍」は山口県が生んだ偉大な現代映像作家、原一男が世に問うた作品でしたが、大阪市立大解放研バージョンは8・9岩国市民館で用意されています。
 行動する解放研としては、はずせない展開ではないでしょうか。8・6広島行動の直後、長崎と同日ではありますが熱い夏とすることができるでしょうか。若者に期待しています。そうそう、当地でジェンダーフリー実践に情熱を燃やす人たちにとってのバージョンもあったらいいなとも思っています。

 なぜだ、この奥歯にもののはさまったような文章は。きさんも同類か。

 国でさえ性犯罪者に対し、更生教育を云々せざるをえない現在、問われた罪を裁かれる事なく逃げてはいかんで。
 彼はまだ受けていません。 性犯罪者更生教育を。
 したがって、その終了証書を持たないで社会復帰はできないでしょう。さて、いかに。

 彼とは昨年3人の女子学生及び院生へのパワーセクハラを申し立てられ、当人も事実を認めながら、懲戒免職にもならず、大阪市立大を退職金までもらって円満退職した、元HRDP(Human right and diversity project)顧問であり大阪市立大学人権問題研究センター研究員、鍋島祥郎という人です。

 彼の講演の案内、それも山口県同教主催の行事の案内が送られてきたので関係者各位にお知らせします。
 
 1、テーマ 差別の現実から深く学び、生活を高め、未来を保障する教育を確立しよう
 2、期日  2007年8月9日 (木) 10:00~16:00
 3、会場  岩国市民会館
 4、講演  「同和教育の残事業~学力不平等を克服する道筋~」
        教育研究家 鍋島 祥郎さん

*うちからの提案ですが、講演の題目は「わたしの犯した過ちの分析と反省」にしてもらえませんか。いかがでしょう。

*追記7月16日・山口県同教事務局に問い合わせたところ、真意はよくわからなかったが、その後講師は変更するとのことです。

2007年7月 8日 (日)

めじゃーをまいなーで語ることはできない ブー

 穢多が固める城下の治安  威風堂々の釘貫-九家の足跡
 もはや めじゃーをまいなーで語り続けることはできない
 和歌山の地図を見る, うなる。
 城下町警察日記の解説にある渡辺広 野田只夫論文の載っている雑誌[部落]を,「部落学序説」の著者吉田向学さんから見せてもらう。
 ただただ うなるしかない。
 「くぎぬき」 その名は文字どおり 治安の要を体した江戸は「だん」と遜色なき名であろう。にもかかわらず1953年渡辺広「紀の国の部落史」は、部落民=賎民とする史観学派にとってはずせない定番の主張で,<部落側の記憶と伝承>を一笑に付し染め直す。 「武士の定着」などと不届きセンバン、「部落民には長い被圧迫階級としての血が流れており、その歴史に誇りを持つべき」と。
 私は改めて思う、なぜそこまで無理難題をいい,事実を逆立ちさせて理解しようとしてきたのかと。
 何度でも言う,メジャーをマイナーで語りつづける事はできない。
 人がいる。社会ができる。掟ができる。その守り手がいる。いったいその社会の統治権力とその守り手の関係はマイナーの世界で語られる筋合いの事柄なのか。おのずとメジャーの世界の事柄であろう。よほどのひねりが無い限りメジャーの世界で充分に理解可能なのではないのか。穢多の話もそこから外れる事は無い。穢多がいるところ それは社会の基本の枠にある。例えば,所在や苗字についても何のことは無いそのままであろう。それは公に関わる事柄だから。

2007年7月 1日 (日)

サンチョは今日も うるさい フー

 急に暑くなって、肉体派サンチョも少々バテぎみな今日この頃。
 それでも、朝からサンチョの驚愕の声が響く。
 「ほれ、カクマルはチュウカクのことをウジ虫とは呼べんぞ。」
 はて、なんのこと?
 「ウジが治す足の壊死。マゴットセラピーというらしい。アボリジニやマヤ文明の時代から傷の治療にウジを使っとったって。一時すたれたけど欧米では今、脚光をあびとるらしい。」
 微生物とかもすぞーと、らんるが好きなサンチョは朝日新聞の医療欄を読みながら、しばし感激の面持ちである。
 「ほれみい、自然の摂理は偉大じゃ。じゃけど、この治療法は病的清潔症の多い日本では普及せんじゃろなあ。アメリカ生まれのウォッシュレットがアメリカでは普及せんで日本で普及したんじゃからのう。」
 サンチョの深いため息。

 わたしは穴のあいたTシャツや作業ズボンに流行の和柄でツギをあてながら
 「これはもう資源ゴミかウエスにしてもよかろうに、なんせ、ぼろを好んで着て仕事に行くサンチョゆえ、捨てると怒る。困ったもの。」とため息をつく。
 むふふ、次はどんなツギをあててやろう。
 君は着こなせるか、ど派手びっちツギ当て作業服。