「なら解放新聞」の休刊に思う フー
けっこう楽しみにしていた「なら解放新聞」(発行 奈良県部落解放同盟支部連合会)が'08年3月号で休刊になった。残念でならない。
最終号で発行人の山下力さんが奈良の被差別部落の現状を分析しながら、解放運動は必要か否かとまで問う姿勢は好ましい。
議論の紹介の中に、部落差別とは何か、部落問題とは何かについて、藤田敬一さんがキーワードは「あいまい」との意見があった。
山下さんも藤田さんも賎民史観に囚われているため、わたしたちとは意見が異なるが、「あいまい」には賛同できる。
どこからどこまでが部落か、何を根拠に部落民と決めるのか、差別するものも、されるものも、よくわかっていない。実にあいまいである。部落民の定義についても諸説ある、「あの人が部落民だ。」と言えば部落民になるという乱暴なものまで飛び出してきた。
抽象的な表現になってしまうが、ものごとをあいまいなままにしておくことで、随分、楽で得なこともあるから、この甘美な「あいまいさ」には要注意だ。
あいまいさはまず思考停止を招く。いくら考えてもわからないから考えても無駄という思いに囚われやすくなる。
部落差別の「あいまいさ」に潜む甘美な思いは腐敗を生む。
この甘美とは、根拠もないのに自分たちを何千年も差別されつづけた「悲しい民族」と位置付け、被差別者の苦しみに甘んじることで自分たちをなぐさめることだ。そこに、ある種の美しささえ感じる人もいる。日本の多くのインテリはその造られた「悲しみの民族」によりそおうとする。そのため、部落に対して奴隷的心情に陥りやすいのではないか。けっして対等な立場にはならない。上か下か、下か上。
そして、その「あいまいさ」が生んだ腐敗とは、被差別部落出身であるなしに関係なく、偏見を逆手にとって儲けようとするやからを山ほど生んだということだ。
それを、「したたか」と表現すれば弱者の強さをいうことになるが、現実の金の亡者たちはそんな生っちょろいものではない。腐ったものほどおいしいとはいへ、食えなくなるほど腐ってしまえば害毒ばかりが広がる。
部落差別にまつわる「あいまいさ」をいつまでもそのままにしておくことは、差別解消どころか新たな差別を生むのではないか。
藤田敬一さんは「あいまいなままでよい。」と言っているが、それを言っちゃあおしまいだと思う。なぜならそれは「わたしは学者ではない。」と自ら宣言しているようなものだから。学者の仕事はわからないことをはっきりさせて、それを発展させ、新たな道を指し示すのではないの?
何はともあれ、「なら解放新聞」が再発行される日を楽しみに待ちたい。
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